「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」が初めて策定されたのは1998年(平成10年)です。その後、2004年(平成16年)と2011年(平成23年)に裁判事例やQ&Aが盛り込まれた改訂が行われ、現行のガイドラインは2020年(令和2年)4月の民法改正に伴って再改訂されたものです。
https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk3_000021.html
さらに、2023年(令和5年)3月には「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」に関する参考資料も公開されており、これらを参照することで、原状回復に関する判断基準が一層理解しやすくなっています。
https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/content/001611293.pdf
最新版のガイドラインでは、原状回復を「賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失・善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること」と定義し、原状回復は「賃借人が借りた当時の状態に戻すことではない」と明確に示されました。
さらに、「通常使用」という曖昧な表現に変わり、具体的な事例が区分され、賃貸人と賃借人の負担について下記のように図示しています。
このように、ガイドラインが改訂され、原状回復に関する考え方が明確に告示されているにもかかわらず、国民生活センターに寄せられる相談件数は思うように減少していません。
毎年、賃貸住宅に関する相談が3万件以上寄せられ、そのうち約4割(1万3,000~4,000件)が原状回復に関するものです。
なぜ原状回復に関するトラブルが減少していないのでしょうか。今回は、具体的な相談事例を紹介しつつ、改めて原状回復に関する定めについて解説します。
相談事例を通じて考える原状回復義務
A.「賃貸アパート退去時、ペットが傷を付けたと言われ、クロスの張替え費用を請求された。傷の写真を見たが、ペットが付けた傷かはわからず納得できない」
B.「賃貸マンションの入居時にルームクリーニング代を支払った際、『退去時にはルームクリーニング代は不要』と言われたにもかかわらず、退去時に請求され納得できない」
C.「賃貸アパートを退去後、原状回復費用の精算書が届いた。入居時から傷ついていた床などの原状回復も求められ納得できない」
D.「10年以上住んだ賃貸アパートを退去したらクロスの張替えなど高額な原状回復費用を請求された。全額の支払に応じる必要があるのか」
これらは、ガイドラインが再改訂された後、国民生活センターに寄せられた相談事例です。これらの相談事例をもとに、原状回復義務について考えていきます。
基本的な判断基準
原状回復についての基本的なポイントは以下のとおりです。
◯自然派生的な経年変化や通常使用による損耗等については、賃借人に原状回復義務はない。
◯故意・過失・善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損があつた場合、賃借人に原状回復義務が生じる。
この基本に基づき、各相談事例を見ていきましょう。
相談事例A
ペット可賃貸物件の退去時にクロスの張替え費用が請求されたケースです。ペット可物件では、ペットによる損耗が想定されるため、通常より高額な原状回復費用が請求されがちです。
傷やシミなどの損耗が、通常使用を超えたペットによるものと判断されるからです。この場合、故意や過失がなくても、賃借人に原状回復義務が生じます。
ガイドラインでは、「毀損部分を含めた一面分までは張替えもやむをえない」との考えを示しています。また、クロスの耐用年数は6年とし、経年変化を考慮して負担割合を決定することが推奨されています。
したがって、一面の張替え、及び経過年数も勘案した負担割合を賃借人に請求するのが妥当でしょう。
◯相談事例B
入居時と退去時の二度にわたり、ルームクリーニング代を請求された事例です。
通常、ルームクリーニングは退去時に実施されるものであり、かつ、通常使用による汚れや塵埃は自然損耗であると解釈されることから、原則として賃貸人が負担すべき費用です。
しかし、契約書に「ルームクリーニング費用については賃借人負担」と明記されている場合、その特約は有効です。これについては「ハウスクリーニング費用を契約書特約で賃借人負担とする明確な合意を賃貸人と約定していれば、賃借人が費用負担する特約は有効(東京地裁令和3年11月1日)」との裁判例からも確認できます。
しかし、ルームクリーニング代を二重請求すること自体「信義則に反し消費者の利益を一方的に害する不当な請求」となる可能性が高く、例え特約があっても容認されないでしょう。
したがって、二重請求に応じる必要はないと考えられます。
◯相談事例C
入居時からあった床の傷に対して、退去時に原状回復費用を請求されたケースです。
入居前に「現状確認書」や「入居時チェックリスト」が作成されていれば問題は避けられたでしようが、ガイドライン改訂前に入居しているケースではチェックリストが作成されていないケースが多く見られます。
この場合、傷が付いていなかったことの証明責任は賃貸人にあります。
賃借人が「入居前から傷があった」と主張している本件では、賃貸人が証明できない限り、原状回復費用の請求は不当と判断されます。
相談事例D
10年以上暮らした賃貸アパートを退去した際、高額な原状回復費用を請求されたケースです。
クロス、畳床、カーペット、流し台などの設備は耐用年数を過ぎていることから、故意や過失による損耗を除けば、原状回復費用の全額を負担する必要はありません。
耐用年数に基づいて双方が合理的に負担を分担する必要があり、請求の妥当性が問われる事案だと判断されます。
設備等の経過年数と賃借人の負担割合を理解する
前項で国民生活センターに寄せられた相談事例をもとに判断基準を解説しましたが、ガイドラインが改正後も同様の相談が多数寄せられており、件数が減少していないことに驚かされます。
ガイドライン改訂に関する解説はインターネット上に多く見られますが、全体で173Pにも及ぶガイドラインの全てを網羅することは難しく、ネットで公開されている情報は一部に限られています。筆者が業者間とのやり取りと通じ、特に理解が不足していると感じるのは、耐用年数に関する知識です。
ガイドラインでは、クロスや壁以外にも建物や設備などに細かく耐用年数が規定されています。これは、故意・過失・善管注意義務違反による損耗であっても、原状回復費の全額を賃借人に負担させることが合理的ではないためです。
耐用年数と負担割合の考え方
耐用年数が経過した設備等については、残存価値が1円となるような直線(または曲線)となることを想定し、負担割合を算定するのを基本とします。
ただし、現時点では損耗等の状況やその度合から、負担割合について客観的・合理的に導き出す基準が存在しておらず、また社会的なコンセンサスが得られていない点、また、詳細な基準を定めた場合、実務において煩雑になるとの懸念から、ガイドラインでは詳細な負担割合の算定は行われていません。
しかし、原状回復を巡るトラブルを解決するには、少なからずこの知見が必要となります。例えば下記は、耐用年数6年(クロス、カーペット、クッションフロア、冷暖房機、ガス機器など)の負担割合を定額法で表現した図です。
耐用年数が経過した設備等については、残存価値が1円となるような直線(または曲線)であると想定し、負担割合を算定する必要があります。つまり、賃借人の居住年数が長いほど、例え故意や過失による損耗であっても、原状回復費用は家賃に含まれているとの考えがあるのです。もっとも、長期間の使用に耐えられ、かつ部分補修が可能なフローリングや、消耗品である襖紙、障子、畳表といったものは経過年数の考えになじまないため経過年数は考慮されていないので留意しておく必要があります。
例えばクロスに関しての原状回復は、耐用年数と同時に以下のような考えに基づき負担割合を勘案します。
もっとも、耐用年数が過ぎたからと言って直ちに設備等が使用不要になるわけではありません。しかし、経過年数1年と10年とでは、経年変化や通常損耗に違いがあるのは当然です。その場合に修繕費の負担が同じでは公平性をかきます。
また、賃貸人が退去時に古くなった設備(ガス湯沸かし器など)を最新のものに交換し、その費用を原状回復費用として賃借人に請求したことでトラブルに発展した事例が確認されます。ガイドラインでは設備等のグレードアップに関する費用を、原状回復費とは認めていないので注意が必要です。
覚えておきたい留意事項
民法第521条では「何人も、法令に特別な定めがある場合を除き、契約をするかどうかを自由に決定することができる」と規定しており、第2項では「契約の当事者は、法令の制限内において、契約の内容を自由に決定することができる」としています。これは「契約自由の原則」と呼ばれる基本的な条文です。
この規定に基づき、賃貸契約において賃貸人は、賃借人に対して特別な負担を課す特約を設けることができます。しかし、特約条項に対する理解不足が原因で、原状回復を巡るトラブルが発生しています。
消費者契約法では、信義誠実の原則に反し消費者の利益を一方的に害する条項を「無効」としていますが、このような強行規定に反していない限り、契約自由の原則に基づいて定められた特約は有効です。
例えば、ペット可物件では、「経過年数によらず、退去時、キズや汚れについては賃借人がその一切を負担する」や「消毒・消毒消臭費用を定額で支払う」といった特約があります。また、喫煙によるヤニや変色、臭いの問題についても、「経過年数を考慮せず全て賃借人負担とする」などの特約がよく見受けられます。
これらの特約は、賃借人がその内容を十分に認識し、理解している限り有効です。
しかし、多くの場合、特約の理解が十分にされていないのにかかわらず、契約書に署名・捺印したことで「理解して契約を締結した」と見なされ、退去時に特約が履行される際「そのような説明は聞いていない」としてトラブルに発展するのです。
ガイドラインでは、最高裁判例や消費者契約法の規定を踏まえ、特約が有効に成立する要件を明確に示唆しています。
特約の有効性が争われる場合、その判断は事案ごとに異なりますが、強行規定に反しておらずその内容が、社会通念上の観点から容認される程度のものであるかが争点になります。
任意規定を排除できる特約であるため、私たちは契約当事者に十分な説明を行う責任があるのです。
したがって、トラブルを未然に防止するためには、入居時及び退去時の確認作業が重要です。賃借人と管理会社等が一緒に点検や確認を行い、修繕が必要な箇所やおよその金額について認識を共有しておくことで、トラブルの発生を未然に防止できます。また、立会が難しい場合には、双方が写真を撮影して証拠を残すことが有効な手段となります。
原状回復に関しては、ガイドラインに基づいて個別に判断することが重要です。特約の内容を確認したうえで、工事単価の目安や修繕費用について明示し、契約当事者双方が納得する形で按分するのです。
特にトラブルが発生しやすいクロスやフローリングについては、経過年数を考慮し、毀損部分の補修に必要な最低限度の工事費用に限定するのが基本的です。たとえ特約があっても、この基本的な考え方は変わりません。
原状回復トラブルが裁判に発展した場合、賃借人側は「信義則に反して消費者の利益を一方的に害する内容は無効」として、消費者契約法第10条に基づく無効を主張することが多いのです。
原状回復トラブルが長期化しても当事者双方に利益はありません。そのため、トラブルが発生しないよう事前に適切な対応を行うことが、有能な不動産業者としての鉄則です。
まとめ
「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」は173ページにわたる詳細な内容で構成されており、さらに参考資料が34ページ、Q&Aまで含めると、関連情報の総量は膨大です。
しかし、情報が豊富であるがゆえに、詳細に読み込んでいる方は少ないように見受けられます。
不動産業に従事していれば、原状回復トラブルや敷金返還請求事案についての相談は避けられません。ガイドラインを熟知している人とそうではない人では、適切な解決策の提示や、助言に質に差が生じるでしょう。これが、実践における即応力の違いとなり、結果、顧客からの信頼度に影響を及ぼすのです。
世間が求めているのは、問題に精通した不動産のプロフェッショナルです。ガイドラインを十分に理解し、原状回復に関する法的知識と実践的な対応を身につけることは、業務における信頼性と競争力を高めるために必須です。だからこそガイドラインを読み込み、原状回復についての知識を体系的に学ぶ努力を始められてはいかがでしょうか。
それが、より良いサービスの提供と、顧客との信頼関係を築く確かな第一歩となるのです。