
不動産の売買契約は、私的自治の原則に基づき、当事者の自由意志により成立します。
その契約内容は、当事者の合意によって変更可能ですが、この合意が成立するためには、表意者が自己の行為による法的結果を適切に認識し、判断できる「意志能力」を有していることが前提となります。
したがって、精神上の障害などにより事理を弁識する能力が欠如または不十分な場合、その者が行った法的行為は民法上における「制限行為能力者制度」によって保護されることになります。
制限行為能力者としては、未成年者、成年被後見人、被保佐人、被補助人が規定されており、これらの者が単独で行った法律行為は、特定の例外を除き、取り消すことが可能です。
また、取り消し権の行使に伴う取引の安全性を確保するため、民法には催告件、取消権の喪失、法定追認、取消権の消滅などの規定が設けられています。
これにより、契約の安定性が保たれ、取引当事者双方の利益も守られます。
しかし、法律の規定を実務に適用する際は、複雑な問題が生じます。
例えば、成年被後見人等であるか否かを確認するためには、法務局で「登記事項証明書」を取得し、所有者の法的状況を明確にする必要があります。
しかし、その取得要件は厳格であり、不動産業者が代理で入手することはできません。
そのため、本人または親族に取得を依頼する必要があります。
特に近年は、高齢化の進展に伴い、不動産実務においても意思能力に懸念を抱くケースが増加しています。
高齢者から不動産売却相談を受けた際、説明内容を十分に理解しているかどうか不明確なことはよくあり、また、法的代理権限を持たない親族が、「所有者は認知症の懸念がある」として交渉窓口になることがあります。
このような場合、所有者が本来の意志に基づかない決断を下すリスクが高まるため、慎重かつ徹底した対応が求められます。
不動産実務において、このようなデリケートな問題に直面した際には、十分な確認を行い、慎重かつ適切な対応が必要です。
本稿では、このような事態に直面した場合の対応方法について検討します。
意思能力と判断能力
意思能力は、しばしば判断能力と混同されがちですが、これらは明確に区別されるべき概念です。
判断能力は法律用語ではなく、物事の真偽を見極め、状況を正しく理解し、適切な判断を下すための広範な能力を指します。これに対し意思能力は、特定の法律行為を行う上で不可欠な法的概念です。
民法第3条2項には「法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする」と明記されています。
ここでいう意志能力は、一般的に民法第7条に示される「事理を弁式する能力」、すなわち「自らの行為が引き起こす法的結果を理解し判断する能力」を指すと解釈されます。
この意思能力の具体的な程度について、民法に明確な規定はありません。
一般的には、7歳から10歳程度の理解力とされていますが、与えられた小遣いでお菓子を購入するような簡易な取引と、不動産売買のような複雑かつ高額な取引では、要求される意思能力も異なります。
また、詐欺、脅迫、錯誤といった外部の影響を受けず、自らの自由意志に基づいて意思決定を行ったかどうかも重要な要素とされます。
事理弁識能力の如何を問わず、長時間の居座りによって強引に締結させた売買契約が、裁判で無効とされるケースが見受けられるのも、意思決定に瑕疵が存在したと判断されるからです。
そもそも、不動産の売買契約は典型的な双務契約です。これは、契約当事者双方が互いに対価性のある義務を負う契約形態を意味します。
売買契約の締結によって、売主には所有権移転と、現実に物件を引き渡す義務、一方買主には売買代金を支払う義務が発生します。
その義務を現実に履行することで、売主は売買代金を受け取る権利、買主は物件の引き渡しを受ける権利をそれぞれ取得します。
したがって、不動産売買契約における意思能力は、この契約によって自身にどのような責任や義務が発生し、どのような権利が取得できるのかを正確に認識し、自由意思に基づき適切に判断できる能力と定義できるのです。
専門家による判断の重要性
加齢、疾病、あるいは障害に起因する認知能力の低下や欠如は、人間の生理現象として避けられない側面です。
このような意思決定に瑕疵がある方を保護し、不利益を防止する目的で規定されているのが、前述の民法第3条2項です。
民法では、制限行為能力者を以下のように具体的に定義しています。
●未成年者:満18歳未満の者
●成年被後見人:精神上の障害により、事理を弁識する能力を欠く常況にある者で、家庭裁判所から後見開始の審判を受けた者
●被保佐人:精神上の障害により、事理を弁識する能力が著しく不十分である者で、家庭裁判所から保佐開始の審判を受けた者
●被補助人:精神上の障害により、事理を弁識する能力が不十分である者で、家庭裁判所から補助開始の審判を受けた者
これらの定義は、不動産を通じて法律実務に携わる私たちにとって基本的な知識ですが、実務において「能力を欠く常況」、「能力が著しく不十分」、「能力が不十分」、といった抽象的な表現を、具体的な個人の状態に当てはめることは極めて困難です。
家庭裁判所による審判がなされていれば明確な対応も可能ですが、私たち不動産業者が事理弁識能力の程度を独断で判断することは許されません。
家庭裁判所による審判を受けておらず、表面上の受け答えに問題がないと判断して契約を締結したとしても、後日、親族や国民生活センターなどから、民法第3条2項の規定を根拠に契約の無効や解除を求められるリスクは常に存在します。
実際、国民生活センターは高齢者による消費者トラブルに関して、継続的に注意喚起を行っています。
意思決定に疑義が生じる場合、契約締結を見送ることが原則的な対応となり得ますが、その判断は極めて困難です。
この点について、厚生労働省が策定した「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」は示唆に富んでいます。
このガイドラインは、支援対象を「認知症と診断された場合に限らず、認知機能の低下が疑われ、意思決定能力が不十分な人を含む」と広範に捉えています。
さらに、本人の意思を最大限に尊重するため、支援者には自己決定に必要な情報を、認知能力に応じて理解できるよう配慮したうえで説明する努力が求められます。
また、言語による意思表示が困難な方に対しては、身振りや手振り、表情の変化なども含め、その意思表示を最大限に読み取る努力が強調されています。
このガイドラインから見いだせる、意思能力を見極める際のポイントは以下の通りです。
●認識力:自分の行為や状況を当事者として認識できているか
●論理的思考力:自身の行為が及ぼす影響を、論理的に判断できているか。
●表現力:自身の意志を明確に表明できるか(ただし、言語表現に限定されません)。
意思決定に瑕疵が存在する可能性が懸念される場合、倫理的かつ法的な問題に発展する可能性が高まるため、「疑わしきは取引せず」という態度も一つの選択肢です。
しかしながら、家庭裁判所による審判を受けておらず、かつ代理人のいない方々に対し、単に言語が不明瞭であることのみを理由に、その意志を尊重しないとする態度は適切と言えません。
このような状況においては、必要に応じて医師や医療ケアスタッフなどの専門家にヒアリングを行うなど、客観的に判断に基づいて慎重に判断することが不可欠です。
無権代理には注意が必要
不動産取引において、代理権を有しないものが代理人として法律行為を行う、いわゆる「無権代理」には細心の注意が必要です。
原則として、無権代理人の行為は本人に法的な効果を及ぼさず、無効となります。
血縁関係のない第三者による無権代理は見極めも比較的容易ですが、親族が無権代理行為を企画するケースでは、その判断も困難を極めます。
たとえば、「父親から不動産の処分を全面的に一任されている」と主張されるような状況です。
このような場合、私たちは当然ながら所有者本人への意思確認を行います。
しかし、前述の意思能力判断ポイントを念頭に意思を進めても、依然として事理弁式能力に懸念が残ることがあります。
このような場合に直面した際は、まずなぜ家庭裁判所に対して成年後見制度を利用していないのか確認する必要があります。
もし本人や親族が制度自体を知らなかったのであれば、成年後見制度の概要と重要性について説明しなければなりません。
一方で、「手続きが煩雑だ」、「以前から自分が全てを任されていたから問題ない」といった主張があった場合は、他の相続人など利害関係者に意見を求め、客観的な事実関係を慎重に確認することが不可欠です。
これは、特定の親族が自己の利益を不当に追求し、無権代理行為を行う可能性を排除するためです。
したがって、不動産取引を進める上では、委任状の厳格な確認はもちろんのこと、所有者本人への直接かつ徹底した意思確認、さらにはケアマネジャーなど利害関係人への確認などを行い、その結果疑義が生じた場合には、弁護士や司法書士などの専門家へ速やかに相談が必要となります。
これらの過程で疑念が払拭できない場合は、当該取引の受任を辞退すべきです。
危険性は常にある
高齢となった親や親類と介護を理由に同居し、他の親族を排除しつつ、判断能力が低下した方の財産を不適切に処分・浪費してしまう事例は後を絶ちません。
実際、筆者は他の相続人から依頼を受け、このような行為が単なる憶測ではなく、実際に行われているかどうかの調査を実施した経験があります。
そのケースでは、幸い不動産の処分には至っていませんでしたが、被介護者の貯蓄は大半が引き出され、それがギャンブルなどの遊興費や借金返済に充てられていました。
親族による横領被害は刑事告訴が可能です。
しかし、親族相盗例(刑法第244条)によって刑が減免される、あるいは親告罪として扱われる特例があります。
この事案においては、ご家族が事件化を望まなかったため、民法上の解決を目指しました。
結果として、民法第113条第1項の無権代理行為および民法第709条の不法行為に該当する可能性が極めて高いと判断し、速やかに弁護士を紹介しました。
同時に、民法第703条「不当利得返還義務」や民法第704条「悪意の受益者の返還義務等」に基づく金銭回収の可能性についても助言しました。
当該事案では、被介護者の判断能力は著しく衰退しており、自ら弁護士に相談し賠償請求を行うことは困難でした。
このような事態の発生を根本的に防ぐには、成年後見制度の活用が適切であると強く感じたケースです。
ここで強調したいのは、たとえ非介護者本人の筆跡による委任状や委任契約書が存在していたとしても、その存在のみを根拠としてご本人の意思であると判断してはならないということです。
意思能力が低下した所有者に対し、受任者にとって都合の良い内容で委任状や委任契約書を作成し、署名させることは、さほど困難ではありません。
任意後見契約と委任契約(任意代理)は、いずれも財産管理や身上監護を任せる制度ですが、その性質には違いがあります。
任意後見契約は、将来的な本人の意思能力低下に備える制度であり、契約締結後、想定した状態に陥った際に効力が生じます。
一方、委任代理契約は、契約締結と同時に効力が生じ、基本的に委任者が意思能力を有している間に行われる行為を対象とします。
重要なのは、いずれの契約も、締結時点において本人が有効な意思能力を有していることが不可欠だということです。
しかし、契約締結時点において意思能力が存在していたか否かを、外形的に判断することは極めて困難です。
この点において、家庭裁判所の関与のもとで判断能力が認定され、権限が明確に付与される成年後見制度が、より高い法的安定性を提供すると言えるでしょう。
前述のように、親族による財産流用に親族相盗例が適用されるのは、「法は家庭に入らず」との政策的配慮があるからです。
しかしながら、家庭裁判所から専任された後見人等に関しては、「刑法上の処罰を免れるものと解する余地はない」とした最高裁判所の判例があります(最一決平成20年2月18日刑集62巻2号37頁)。
これは、親族間であっても、後見事務が公的性格を有するものであるため、親族相盗例は適用されないという判断が示されたことを意味します。
成年後見制度の申立自体は、手数料800円、登記手数料2,600円(いずれも収入印紙にて納入)と、金銭的な負担は大きくありません。
しかし、相続財産目録、後見人候補者事情説明書、代理行為目録など、一般の方にとって複雑な書類の作成に加え、本人の判断能力に関する鑑定や医師による診断書の提出が必要となるなど、単独で申し立てを行うにはそ相応の専門知識や準備が必要です。
このような背景から、申請の必要性を感じながらも、実際には申立てに至らないケースが少なくないのです。
しかしながら、私たち不動産業者は、依頼者の大切な財産を適切に保護するという使命を担っています。
そのためには、このような潜在的リスクに関する専門的知見を常に高め、依頼者に対し的確かつ倫理的なアドバイスを提供する責務があると言えるでしょう。
まとめ
本稿で詳細に解説したように、制限行為能力者との不動産取引においては、細心の注意が不可欠です。
しかし、個人の意思能力がどの程度の水準であるかを外形的に判断するのは困難を伴います。
これは、詳細なヒアリングを通じておおよその目安を把握するしかないという実情があるからです。
また、親族などが財産管理を任せられていると主張する場合でも、それが所有者本人の明確な意思に基づいているのかどうかを慎重に見極める必要があります。
制限行為能力者自らが詐術を用いた場合は法的に保護されないという原則はありますが、問題はそこに留まりません。
ひとたびトラブルが発生すれば、不動産取引に関与した全ての関係者が、予期せぬ紛争に巻き込まれるリスクがあるからです。
任意後見契約や委任契約が締結されている場合であっても、それのみを根拠として安易に安心することはできません。
最終的に取引の安全性を担保する上で重要な見極めのポイントとなるのは、家庭裁判所によって専任された法定後見人であるか否かです。
不動産の処分には家庭裁判所の許可が必要とされるため、それが取引の安心材料となるからです。
しかしながら、実務においては意思能力に懸念がある所有者が必ずしも後見制度を利用しているとは限りません。
私たち不動産業者は、このような状況下においては、わずかでも疑義が生じた場合には取引に応じないという原則を貫くべきです。
そして、やむを得ず受任する場合には、徹底した裏付け調査を実施し、あらゆるリスクを最小限に抑えるための配慮が重要だといえるのです。