【基本を忠実に理解したい】履行の着手と手付解除の落とし穴

国土交通省および各保証協が提供する不動産売買契約書には、一般的に、契約締結時に取り決めた期日まで、あるいは相手方が契約の履行に着手するまでであれば、買主は支払済みの手付金を放棄し、売主は受領済みの手付金の倍額を提供することで契約を解除できる旨の条項が設けられています。

これは、いわゆる「手付の放棄・倍返し」として知られています。

期日経過後の解除について違約金が発生することは理解できますが、履行の着手に関する認識は、当事者間や媒介業者によって解釈に大きな隔たりがあるのが現状です。

例えば、決済に向けて司法書士に所有権移転や担保権設定、抹消登記を依頼して、必要書類を預けた時点で履行に着手したと見なされるのか、あるいは引き渡しに向けて引っ越まで終えた場合はどうなのかなど、その判断基準は極めて曖昧です。

しかしながら、この曖昧な判断基準に対して、過去の裁判例は一定の指針を提供しています。

本稿では、実務において判断を迫られる履行の着手という概念と、その具体的な判断基準について、裁判例を交えながら詳細に検証を進めます。

手付の基本的性質

不動産売買契約において手付金は、契約の成立を証すと同時に、手付解除や倍返しの目安として支払われる金銭ですが、その法的な性質は以下に分類されます。

1. 証約手付:売買契約が成立したことを証す性質
2. 解約手付:手付の放棄または倍返しによって契約を解除できる権利を留保する性質
3. 違約手付:当事者の一方が契約に違反した場合、手付金が損害賠償金として充当される性質

手付金の性質を上記のいずれに定めるかは、契約当事者の合意によって自由に決定できますが、特段の取り決めがない場合、解約手付として扱われるのが一般的です。

この点は、最高裁の判例においても、「売買における手付は、反対の証拠がない限り、民法所定の解約手付とみなされるべきである(最判昭29・1・21)」との判断が下されており、確定的な基準として定着しています。

不動産の売買契約における手付金の額は、慣例として売買価格の10%から20%の範囲内で定められることが多い一方、契約当事者が個人の場合、法律による具体的な定めはありません。

ただし、宅地建物取引業者が売主となる場合には、宅地建物取引業法第39条第1項に基づき、売買代金の10分の2を超える額を受領してはならないとの制限が設けられています(保全を講じた場合はこの限りではありません)。

実務上、「手付金0円での契約は有効か」という疑問がしばしば提起されます。

この点について、筆者は不動産会社のミカタに【手付金『0』で契約できないというのは思い込み?】正確に理解しておきたい手付と契約の関係_という記事を寄稿したことがあります。

結論としては、手付金の授受がなくても不動産の売買契約は有効に成立します。

もちろん、当事者の合意が前提となりますが、契約自由の原則に基づき、手付金の額や授受の有無は自由に決定することが可能です。

もっとも、安易な解除を誘発するなどの弊害が予測されるため、実務的には少額でも手付金を授受するのが一般的です。

不動産業者には、手付金の額や授受について法律上の明確な定めがない点について、当事者に適切に説明することが求められます。

履行の着手

当事者間や媒介業者によって解釈に大きな隔たりがある「履行の着手」ですが、最高裁判所はその意義について明確な判断を示しています。

具体的には、「債務の内容たる給付の実行に着手すること、すなわち客観的に外部から認識できるような形で履行行為の一部をなし、または履行の提供をするために欠くことのできない前提行為をした場合(最判昭40・11・24)」には、履行に着手したと見なされると判示しているのです。

この判例のポイントは、客観的に外部から見て、給付の実行や履行の一部が提供されている状態であることです。

そのため、単に融資承認が得られた、あるいは登記手続きを行ったなどの状態は、原則として準備行為とみなされ、履行に着手したとは評価されません。

ただし、別途特約が設けられている場合はこの限りではありません。

私たち不動産業者は、これらの判例から特約を設けることがいかに重要であるかを学ぶ必要があるのです。

実際、「履行の着手」についての見解を巡っては、数多くの裁判が提訴されていますが、そのすべては最高裁が判示した上記の基準をもとに判断がなされています。

具体的には、以下のような場合に履行の着手が認められています。

●買主が履行期到来後、売主に対ししばしば明け渡しを求め、その間、明け渡しがあればいつでも残代金の支払いが可能な状態であった場合(最判昭30・12・26)

●同様のケースで、売主が移転登記に応じればいつでも残代金を支払える準備がなされていた場合(最判昭33・6・5)

●農地売買において、農地法第5条で規定された許可申請書を連署で知事あてに提出した事案(最判昭52・4・4)

これらの判例から、これまでは、現実に代金提供できる状態で、かつ外形的に認められる場合(例えば、数回にわたり提供できる旨を明らかにしている場合など)、あるいは連名で、引き渡しに向け具体的な手続きを講じた場合には履行に着手していると見なされるとの見解が一般的とされてきました。

しかし、この解釈に一石を投じる判例があります。

売主が居宅買替のため、契約締結後1年9ヶ月後に決済日を設定した売買契約において、特約に基づき買主は履行期1年以上前に土地の測量を実施し、その実測面積に基づき売買金額を若干増額したうえで金額を確定し、さらに残代金の支払準備を完了していました。

にもかかわらず、売主は地価上昇により新たな宅地の購入が困難となったことを理由に、倍返しによる契約解除を求めました。

買主は、「契約の履行に着手した」として違約金の支払いを求めましたが、裁判所は売主の主張を認め、買主の主張を退けました(最判平3・1・6)。

通例、実務においては履行の着手が認められる事案であったと考えられますが、裁判所は、「履行の着手にあたるか否かは、当該行為の態様、債務の内容、履行期が定められた趣旨・目的などの事情を総合的に勘案して決すべきである」との総合考慮説を採用したのです。

従来の見解では、外形的に容認される状態での残代金準備が手付解除を封じ得る有効な手段として機能していましたが、この判例によって一概に判断できないことが明らかになりました。

結果として、履行期が近接している場合の判断基準や、口頭による履行提供と現実に行われた提供の解釈など、新たな課題が浮き彫りとなり、もはや不動産業者が迂闊に「履行に着手している」と断定できない状態となったのです。

実務上の問題

前項で述べたように、「履行の着手」は、当該行為の態様、債務の内容、履行期が定められた趣旨・目的などの事情を総合的に勘案して判断する必要があり、不動産業者が安易に判断を示すべきではありません。

しかしながら、現実に目を向けると、融資承認の取得、実測の実施、引越業者への見積依頼、司法書士への書類を預け入れなど、本来であれば準備段階に過ぎない行為を「履行の着手」とみなしているケースが散見されます。

また、不動産に関する契約全般においては、手付解除期間を設け、当該期間の満了以降は手付解除権が行使できなくなる旨を定めるのが一般的です。

この期間は契約当事者の合意によって自由に定めることが可能であり、明確な法的規定も存在していません。

そのため実務においては、「契約自由の原則」、「私的自治の原則」を根拠とし、早期の取引安定化を図る目的で、手付解除期間を1週間以内といった極めて短期間に設定するケースも散見されます。

しかし、決済が契約締結後1ヶ月以内であるなど特段の事情がない限り、契約当事者の一方に不利となる特約は、民法が手付解除を認める趣旨および公序良俗に反するとされ、無効となる可能性があります。

何よりも、手付解除と違約金の支払いとでは、その額に大きな隔たりがあります。

契約当事者が納得して違約金の支払いに応じれば問題は生じないかもしれませんが、一般的に違約金は売買代金の20%程度と高額に設定されることが多いものです。

このような高額な違約金の支払いに容易に応じるケースは稀であり、結果として「履行の着手」にあたるか否かを巡るトラブルに発展する可能性が高いのです。

その際、不動産業者が履行の着手に関する判例や見解を十分に理解せず、準備段階の行為を履行の着手であると断じた事実が判明すれば、法理を知らない業者であるとして信用失墜を招く事態に繋がりかねません。

その結果、顧客からの信頼を失い、事業継続に深刻な影響を及ぼすリスクがあるのです。

まとめ

不動産業者は、顧客からの多岐にわたる質問や相談に対し迅速かつ的確に回答し、時には判断を求められる場面に頻繁に遭遇します。

こうした際に根本的な原因や問題点を速やかに把握し、適切に対処するためには、日頃からの継続的な研鑽、豊富な経験、そして体系的な知識が不可欠です。

顧客は、担当者が皆不動産のプロフェッショナルであると期待し、どのような質問や相談にも明確に回答してくれると信じています。

もっとも、不動産業者に求められる知識や知見は広範であり、法改正が頻繁に行われるなど変化も著しいため、全ての分野に精通することは容易ではありません。

特に、社員10名以下の企業が全体の9割以上を占める業界であるため、研修や教育に十分な時間やリソースを割く余裕もなく、現場での実践経験に依存することが多い傾向にあります。

このため、理論的な知識やマーケットに関する理解が不足していると指摘されがちです。

競争が激化する業界においては、短期的な成果を優先するあまり、業務の効率化や自己研鑽が後回しにされがちです。

しかし、このような業界の背景を深く理解し、自ら積極的に知識やスキルの向上に努めることが、真に「一流」と称される企業人への道を拓くことに繋がるのです。

本コンテンツが、不動産業に携わる皆様の専門知識の深化と、顧客への適切な対応力の向上に資する一助となれば幸いです。

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