江戸時代の土地制度と「大家業」

江戸時代は不動産業が日本に生まれる重要な起源ともいえる時期でした。江戸期にはいわゆる「大家さん」と呼ばれる人たちが出現しており、土地や家屋の売買も活発におこなわれていたことが、さまざまな資料で明らかになっています。

この時代がその後の不動産業に与えた影響は、小さいものでなかったと思われますが、ここでは「江戸」でおこなわれていた不動産売買や賃貸業の概要、そして明治に至り首都機能を担うことになる町の礎を見ていきます。

\ 不動産仲介業務効率化ツール9選 /
各シチュエーション別人気資料も紹介

多忙な不動産営業マンのために、各シチュエーション別に業務を効率化できるツールをご紹介します。

不動産仲介業務効率化ツール9選 | 各シチュエーション別人気資料も紹介

土地所有権と売買

江戸時代になると、太閤検地を引き継いだ江戸幕府の検地により、農地に関しての所有者・面積・石高がリスト化され、管理されるようになりました。一方、農地以外の町人地や武家地・寺社地にも “所有権” が認められており、町人地は権利証にあたる「沽券」が土地所有者に交付されていました。

慣用句に「沽券にかかわる」という言葉があります。 “プライドが傷つく” のような意味につかいますが、土地所有権を表す「沽券」が語源のようです。

農地は「田畑永代売買禁止令」により売買を禁止していましたが、町人地では売買が活発におこなわれていたようです。

土地の売買は所有権の移転を証するため、売主と五人組や名主が署名・捺印した「沽券」を、代金と引き換えで買主に交付し、売主が持っていた沽券には消印をして無効にしました。

売買取引は名主の家でおこなうことが一般的だったようで、名主は取引台帳を保管しており取引の内容を記録していました。つまり不動産仲介業の事務所を兼ねていたようです。

土地は金融担保としても活用されていました。沽券を「質入」しお金を借りるのですが、期限までに返済できない場合には “質流れ” となり所有権が移動する土地もあったのです。質入れは都市部の土地だけでなく農地でも行われていたようです。

土地売買と不動産投資

土地や町家の売買は活発におこなわれており、「口入業者」と呼ばれる物件仲介業者がおりました。仲間同士のネットワークにより、物件形状や収益そして価格などの情報を共有するための書類を整備していたのです。たぶん現代の「マイソク」のようなものだったと思われます。

取引が成立すると口入業者には仲介手数料が支払われていましたが、料率や売主が払うか買主が払うのかの明確なルールはなかったようです。

地代の調査もおこなわれており、角地は高かったがことがわかっています。木造家屋の燃えやすいことが理由で、角地のほうが類焼を受ける可能性が低かったからということですが、うなずける話です。

一方、土地は投資対象にもなっており、湯屋株や髪結株などの営業権売買との関りが強く、口入業者が株の仲介と同時に土地の仲介をしていたこともわかっています。

江戸時代の賃貸業

江戸は日本最大の町でしたが18世紀には100万人を超えていました。半数が町人ですが町人が所有する土地は2割ほどしかなく、たいへん人口密度の高い生活環境だったようです。

町人の住まいは「町家」と呼びますが、狭い土地に多くの人が住めるように、「長屋」形式の住居が多く建てられていました。

土地の所有は町人ばかりでなく武士や豪農が所有することもあり、所有する土地に町家を建てたり、町家を建てる人に土地を貸すこともおこなわれていたようです。

このように江戸時代には「賃貸業」が成立しており、「家守」という現代の賃貸管理をおこなう専門業も存在しています。

「家守」は集金した地代や家賃から一定の手数料を徴収して、残りを所有者に賃料として払っています。そのほか居住者の糞尿を農民に売却する利権もあり、この収入がたいへん大きく安定した商売になっていたようです。

賃貸業における賃貸人を「大家さん」といいますが、江戸時代の大家さんは「家守」のことであり、オーナーではありません。

また江戸時代の大家さんには、借家の管理だけではなくもっとさまざまな役割があったようです。

・ 住民トラブルの調停や和解
・ 行政上の連絡
・住民登録業務
・火の用心などの見回り
・ 捨て子などの世話

このように現代の自治体・裁判所・消防署・警察署の役割の一端を、奉行所との連携により担っていたのです。

武家屋敷と町人長屋

現代の和風住宅の原型は江戸時代の武家屋敷だといいます。

町人は長屋住まいというイメージが強いのですが、武士が町家に住んだり、町人が武家屋敷を借りて住んでいたというケースもありました。

また幕府の旗本が拝領屋敷内に長屋を建て、貸家として町人を住まわせていたこともあり、町人は武家屋敷の造りを実際に見たり暮らしたりする機会が多かったのでしょう。

住文化に「書院づくり」の格式や伝統が引き継がれたこと、納得できそうです。

書院づくりの典型的なものは「玄関」や「座敷」ですが、座敷には床の間があり縁側があるという、長屋にはみられなかった様式が和風住宅のプロトタイプとして現代にもつづいています。

住宅雑誌Replan | 編集長ブログ・性能とデザイン いい家大研究「【現代住宅のルーツ? 「江戸期中級武家」屋敷】」 には「八王子千人同心組頭の家」が紹介されており、武家屋敷と現代和風住宅との関連性を確かめることができます。

江戸の都市計画

江戸は東京の前身ですが、およそ70年間におよぶ都市開発の歴史があります。
家康~秀忠~家光~家綱と4代にわたり開発事業を進めました。

現代においての「都市計画」では、マスタープランを策定したのち、長期計画にもとづいて “年次計画” が作られ、漸進的に開発がおこなわれるものですが、江戸時代はすこし違ったようです。

家康の頃の江戸は “非常に狭い土地” であり、居住地を増やすには海を埋め立てる以外に方法がなかったと考えられます。

必要に応じて陸地を増やしたり、沖積地を開発したりと事前の計画はあまりなく、どちらかというと “行き当たりばったり” という感じで進んだようです。また資金面での幕府の負担はなく、各地の大名に対する徳川将軍家の支配力が強くなるにしたがい、開発のスピードがあがったと思われます。

海は江戸城のすぐ際までせまっており、東側は隅田川により遮られ、武蔵野台地は小さな川の流れる谷が入り汲んでいました。日比谷公園のあたりは「日比谷入江」と呼ばれ「海苔」が採れていたところです。

まっさきに埋め立てられたのが日比谷入江で、霞が関から銀座や新橋までの一帯が陸地に変わり、大名屋敷などの建設用地となったのです。

日比谷入江が埋め立てられたのちは、墨田川の東側の開発に力を注ぐようになり、現代の東京の基礎ができたといえます。

そして日比谷入江の埋め立てにより生まれた土地は、諸大名の所有になっていました。
明治維新によりこれらの土地は新政府の所有地となり、現代の霞が関や虎ノ門など日本の中心地を形成することにつながったのです。

参考サイト

国土交通省 国土技術政策総合研究所「歴史まちづくりの特性の見方・読み方」
公益財団法人江東区文化コミュニティ財団「江戸の町の発展と庶民の生活」
お江戸へGO!!(塾生レポート) | 松下政経塾
J-STAGE「幕末期江戸における幕臣屋敷の屋敷地利用と居住形態」
住宅雑誌Replan | 編集長ブログ・性能とデザイン いい家大研究「【現代住宅のルーツ? 「江戸期中級武家」屋敷】」
edo→tokyo「日比谷の地名の由来-海の痕跡が残る日比谷公園」
東京港湾事務所「家康が夢見た港湾都市」
一般社団法人東京都港湾振興協会「東京港埋立のあゆみ」

【参考書籍】

・『日本不動産業史』 発行所:財団法人名古屋大学出版会 編者:橘川武郎・粕谷誠 発行者:金井雄一
・『江戸の都市計画』 発行所:株式会社三省堂 著者:鈴木理生 発行者:守屋眞明

不動産会社のミカタメルマガ

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

よく一緒に読まれている記事