関東大震災と復興に向けた施策

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。被害は東京・神奈川・千葉・静岡・埼玉と1府4県におよび、東京市と横浜市は大きな被害に見舞われたのです。

東京市の焼失面積は43.6%の3,470haにおよび、住宅全壊棟数1万2千棟、焼失16万6千棟を数える大被害でした。横浜市の被害も大きく、住宅全壊棟数1万6千棟、火災は6万2千余戸が全焼し全戸数の63%に達しています。

日本の歴史においては未曽有の災害でしたが、復興のための具体的手法としておこなった土地区画整理事業と、成立したばかりの借地借家法に加えられた臨時措置について振りかえります。

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まぼろしの東京改造プラン

震災の3年前、内務大臣や外務大臣を務めた後藤新平が東京市長に就任し、「東京市政刷新要綱」を発表するなど市政刷新に動き出していました。

震災の翌日、前内閣総理大臣加藤友三郎の死去により中断していた内閣が急遽組閣され、後藤新平は再び内務大臣に就任します。

内務省は現在の総務省、国土交通省、厚生労働省、国家公安委員会を合わせたような組織で、震災復興の要となる省でした。

後藤大臣は4つの基本方針を構想します。

  1. 東京からの遷都はしない
  2. 復興予算として30億円をかける
  3. 欧米にならい最新の都市計画を実現
  4. 地主に断固たる姿勢で臨む

そのご政府内では復興にあたる組織体制の検討を重ね、9月27日に「帝都復興院」が内閣直属として設置され、後藤は総裁に就任しました。

帝都復興院は具体的な復興計画策定に着手し、10月19日の理事会・幹部会で次のような復興計画の骨格が決定します。

  1. 幹線道路幅員は30間(約54m)以内
  2. 重要路線12線と補助線は幅員6間(約11m)以上
  3. 土地収用面積は230万坪~250万坪(760ha~820ha)*焼失面積の約22%
  4. 土地収用の特別法を制定
  5. 幹線道路に地下鉄道を開通
  6. 河川の拡幅と浚渫
  7. 日比谷、上野、芝以外の大公園を開設し10ヶ所の小公園を設置
  8. 中央卸売市場の魚・青物分場設置

そのご地下鉄道・高速鉄道が削除され、総予算13億円の案が認められました。

関東大震災,復興,施策

引用:防災情報のページ - 内閣府「第1章 帝都復興の展開」

しかしそのご専門家も加わった参与会および小委員会にて、詳細な検討と予算を管轄する大蔵省を交えた協議の末、予算総額は7億2千万円となり街路計画は縮小されていくのです。

この時点で後藤が描いた「30億円の復興計画」は1/4以下と大幅削減されましたが、さらに追い打ちをかけるのが「帝都復興院」とは別組織であり、内閣総理大臣の諮問機関であった「帝都復興審議会」でした。

帝都復興審議会の委員には、銀座の大地主で枢密顧問官の伊東巳代治、元内閣総理大臣高橋是清、日本近代資本主義の父といわれる渋沢栄一らが就任しており、さまざまな意見がだされました。

予算面で大きな要素となったのは道路の幅員であり、幅員が広ければ広いほど費用が高くなります。ほかにも東京築港・京浜運河の削除などにより予算は縮小し、最終予算は5億9770万円となったのです。

このような経過をたどり、後藤新平の30億円プランは実現することなく、首都東京の復興がスタートしたのです。

このころの国の一般会計予算は15億円ほどなので、5億9千万は限界だったのかもしれません。
もし予算がもっとあれば、このとき計画された明治通り・靖国通り(大正通り)・昭和通りは、もっと幅員の広い大通りになっていたのでしょうか……。

土地区画整理手法の確立

後藤新平の30億円プランは用地買収による道路整備を企図していたようですが、結局土地区画整理をおこなうことになりました。

事業主体は国と東京市と横浜市が分担しおこなうことになり、内訳は次のとおりです。

東京市の区域 横浜市の区域
国の施行 15地区570ha 6地区165ha
東京市施行 50地区2400ha
横浜市施行 7地区165ha

出典:防災情報のページ - 内閣府「第1章 帝都復興の展開」

これまで土地区画整理事業は「耕地整理事業」の手法を準用していましたが、特別都市計画法を制定し「減歩と換地」のしくみを創出し実行されました。このときに手法をまとめあげた一人が内務省の技師であった伊部貞吉という人物でした。

伊部貞吉は警視庁勤務時代に、早稲田鶴巻町・新宿・浅草田町でおきた大火の跡地で実施された、区画整理事業の経験があったそうです。

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出典:防災情報のページ - 内閣府「第1章 帝都復興の展開」

耕地整理事業が対象とする土地と、震災復興における土地区画整理とでは大きな違いがあります。前者は耕地(農地)ですが後者は市街地です。

市街地はすでに建物が建っていた土地も区画整理対象となるので、区画整理によりすべての土地の換地処分が完了するまで、使用できないとなると事業は進みません。

そこで道路の整備と同時に建築が可能になるよう、「換地予定地の指定」が規定されます。同時に特別都市計画法には「換地処分」の用語が初めてみられ、「換地予定地」という用語は後に「仮換地」という現代の用語になるのです。

こうして市街地再開発に使用できる、土地区画整理手法が確立したのでした。

借地借家法の臨時措置

災害は個人間でのトラブルもひき起こします。

大きな災害があると便乗値上げがおこなわれます。住宅不足により地主や家主からの不当な値上げや、不当な契約の押し付けが頻発しました。

また借地権は、建物が登記されていることが要件となっていましたが、建物が焼失や滅失していると借地権を主張できなくなります。

建物を借りて商売をやっていた人たちも深刻です。住まいと共に作業場や店舗を失ったわけです。バラックを建てて生活の場と商売の拠点を復活させようとする人も多くいます。

すると地主との間にバラック撤去をめぐるトラブルが発生するのです。

このようなトラブルを解決するため、1924年(大正13年)7月「借地借家臨時処理法」が制定され、法施行以降の借地権や借家権を認め、便乗値上げを防止する働きをしました。この法律は太平洋戦争後の1946年(昭和21年)に制定される「罹災都市借地借家臨時処理法」の原型になったのです。

関東大震災により生まれた新しい動き

震災からの復興の過程で東京には新しい動きが生まれます。

  • 郊外の住宅地開発
  • 災害に強い街づくり

1920年代から1930年代は東京市西北部や西南部において、民間鉄道会社による土地区画整理事業がおこなわれ、宅地開発分譲が盛んになっていました。東京市の約半分が失われ復興を目差すなか、開発されている西郊部への移転を考える人も多かったと思われます。

一方、中心部では災害に強い耐震耐火性に優れた共同住宅が建てられ、都市建築が持つべき性能と都心で働くサラリーマンなどへの、居住環境を提案するプロトタイプが生まれようとしていました。

つまり渋沢栄一が夢として描いた「田園調布」と、同潤会アパートです。次回はこれらの歴史的意味を2回に分けてお伝えします。

参考サイト

【参考書籍】

  • 『災害復興の日本史』 発行所:株式会社吉川弘文館 著者:安田政彦 発行者:前田求恭

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