東京市区改正条例が交付された1888年(明治21年)ころになると、不動産業と呼べる業態が生じてきます。具体的な業務としては仲介と管理を行う業者が主でした。
三菱・三井・住友・安田などの財閥も土地の集積が進み、自ずと所有する不動産の活用と管理を行う不動産部門が生まれてくるようになります。
ここでは “日本で最初の住宅ローンを創設した会社” といわれる東京建物に焦点をあて、同社の概要や明治中期から昭和初期までの不動産業の姿を浮き彫りにしてみます。
不動産業で先駆的役割を果たした東京建物
東京建物は安田財閥の創始者安田善次郎が1896年(明治29年)に設立した会社です。所在地は東京市日本橋区呉服町、現在の中央区日本橋2丁目永代通り沿い付近でした。
安田善次郎は1838年富山藩の下級武士の家に生まれ、17歳のときに江戸で丁稚奉公をはじめ、1864年に安田屋を開き両替商をはじめます。
商売は順調に拡大し金融業者としての地位を確立します。1876年(明治9年)第三国立銀行の創立に参加し自身の銀行である「安田銀行」を1880年(明治13年)に開業します。
翌々年には日本銀行の理事に就任し、ほかにも生命保険や損害保険と事業を拡大し、東京建物を創業し不動産業・不動産金融業にも進出しました。有名な東京大学の安田講堂は安田善次郎の寄付によるものです。
東京建物のウェブサイトには創業時の開業広告が掲載されており、住宅、商店、倉庫、事務所、工場、旅館などの建築工事を、長期の分割払いで請負うことをピーアールしています。
これが日本最初の住宅ローンといわれるものでした。
引用:東京建物
会社のキャッチコピーとして「土地建物の改良機関」と「土地建物の金融機関」とうたっているのが、明治時代の雰囲気がでているのではないでしょうか。
開業広告の冒頭には『当会社儀今般その筋より設立免許を得……』の文言がいい感じを出しています。
会社設立7年後には中国に進出し住宅・ビルの管理運営事業を開始し、現在も中国をはじめアジア各国で開発事業やコンサルタント事業を展開しています。
先駆的な事業展開はこの会社のバイタリティを感じさせます。東京建物がおこなった代表的な事業をあげてみましょう。
引用:東京建物
東京の人口増加と人口密度
東京建物が設立される以前、すでに東京では宅地開発が行われ人口増加がおきていました。
東京市は15区あり中心部とされる区は4区あります。
2. 神田
3. 日本橋
4. 京橋
周辺11区は以下のとおりです。
6. 麻布区
7. 赤坂区
8. 四谷区
9. 牛込区
10. 小石川区
11. 本郷区
12. 下谷区
13. 浅草区
14. 本所区
15. 深川区
東京市の人口増加は1886年(明治19年)ころから、中心部4区で急激な人口増加がみられます。
1892年(明治25年)ころからは中心部4区と周辺11区の人口増加は、ほぼ同じような増加率で推移しますが、1900年(明治33年)には周辺11区の人口増加が著しくなります。
1913年(大正2年)には中心部と周辺部の人口密度の差は10%以内となり、最も高い人口増加をみたのが「小石川区」でした。
この15年後に東京建物が「関口台町」(現在の文京区)にて宅地分譲事業を開始しますが、いうまでもなく小石川区の人気に着目した立地選択だったのでしょう。
小石川区の人口増加には理由があります。
小石川区や隣の本郷区は江戸時代に武家屋敷が多く建てられた地域であり、広大な屋敷跡には大学や教育機関が建てられるようになったのです。
富国強兵・殖産興業を国是とする明治政府は教育に力を注ぎました。そのため現在の文京区には多数の官立・私立学校が設立され、夏目漱石や森鴎外など多くの文人も暮らす街となります。
教育や医療に関わる印刷・製本・医療機器などの産業も興り、人口が密集する活力のある地域へと変貌したのです。
宅地化の動き
人口増加に伴い宅地の供給が必要となります。
中心部4区の宅地率はあまり変化がありませんが、周辺11区は1884年(明治17年)に宅地率が約50%であったのが、1910年(明治43年)には70%にまで増加しています。
宅地供給は大地主による貸家・貸地事業が主体であったと考えられ、土地所有者数は非常に少なかったのが大きな特徴です。
下表は1912年(大正元年)東京の地主数と所有宅地面積を表したものです。
引用:『日本不動産業史』発行所:財団法人名古屋大学出版会
表を見ると一目瞭然ですが、2%弱の地主が半分近い宅地を所有していることがわかります。
東京では宅地上にはたくさんの貸家が建ち、1922年(大正11年)のデータでは借家居住率が93%に達していました。その後持ち家率が上昇し1931年(昭和6年)に31%に達するのですが、借地上に持ち家を建てるケースが多くなったことが原因と考えられます。
地租改正により土地を所有するだけで納税義務があったため、土地の活用を図り収益を上げなければなりません。借地として活用を考えたり、貸家を建てる地主が多くいたと想像できるのです。
おもしろい貸地事例として、土地活用として朝顔栽培用地を貸していた地主が、東京市区改正条例の公布ころから、宅地に転換している事例が小規模な宅地供給では見られます。
一方大規模な宅地供給は旧大名や財閥が主体となっており、一例をあげると、丸の内と練兵場のあった神田三崎町の土地20万坪が1890年(明治23年)三菱岩崎家に払い下げられ、丸の内はオフィス街として、神田三崎町は宅地として開発をおこないました。
神田三崎町は純然たる住宅地ではなく、劇場・旅館・下宿屋などが借地上に建ちならび、市街地として開発したことを特筆しておかねばなりません。
土地区画整理事業の誕生
東京建物に話を戻すと、1928年(昭和3年)関口台町にて宅地分譲事業に着手しましたが、大規模な宅地開発の手法として「土地区画整理」がこのころ始まっています。
1919年(大正8年)都市計画法が制定され、土地区画整理の手続きが規定されるのですが、土地区画整理は1899年(明治32年)の耕地整理法が元になっていました。
耕地整理法による手法を宅地開発に応用した事例は、名古屋市や神戸市でも見られその有効性が評価されていたようです。1923年(大正12年)の関東大震災復興事業において、土地区画整理の手法が定着するわけです。
震災以前にも1920年には、東京での住宅不足が深刻な状態にあったといいます。
そのため東京市の隣接町村では無計画な開発が進みました。そこで東京市は行政区画を超えた都市計画を実施し、現在の杉並区(当時は奥多摩郡杉並町)では、大規模な民間による土地区画整理事業が実施されています。
下表は1914年(大正3年)~1936年(昭和11年)の期間に関東で実施された、民間による郊外住宅地開発の件数です。
引用:『日本不動産業史』発行所:財団法人名古屋大学出版会
鉄道会社による開発は東京市の西南郊外がほとんどであり、開発した会社を件数の多い順に並べると以下のとおりです。
・東京横浜電鉄
・目黒鎌田電鉄
・小田原急行鉄道
・東武鉄道
・京成電気軌道
・京浜電気鉄道
土地会社の半数以上は堤康次郎の箱根土地の開発です。また信託会社の開発は三井信託や東京信託がおこないました。
東京信託(現 日本不動産(株))が桜新町一帯でおこなった「新町分譲地」は、関東では最初の大型住宅地の分譲として知られています。
東京建物の顧客層
日本最初の住宅ローンといわれる東京建物の事業は、住宅のほか店舗や事務所など業務用建物の工事請負も、目的としていたものです。
顧客層として考えられるのは、地主はもちろん借地上でビジネスを意図する起業家もいたことでしょう。貸家業も盛んであり貸家を建築する地主や、借地上の持ち家建築もあったと考えられます。
1887年(明治20年)には所得税法が成立しており、地租以外の税金として所得税も国家の重要財源になりはじめていたことがうかがえます。
税収のなかで所得税が占める割合は1896年(明治29年)2.2%であったものが、1919年(大正8年)には20.7%に上昇し、地租と酒税を抜いて最大の財源に成長していました。
こうして事業所得者や給与所得者が、地主階級に代わって社会的な発言力を徐々に持つようになるのです。
商工業事業主は不動産を担保に、事業資金や設備資金の融資を受けようとする需要が増加します。
東京建物が設立された翌年1897年(明治30年)から1900年(明治33年)にかけて、日本勧業銀行、農工銀行、北海道拓殖銀行があいついで設立されます。
これらの銀行は農工業を育成する目的で設立されましたが、都市の発達にしたがい不動産業など商業の育成にも関わるようになり、不動産抵当金融機関の必要性がクローズアップされるようになりました。
1911年(明治44年)には日本勧業銀行法が改正され、勧銀内部に市街地を専門に貸付をおこなう金融部門が併設されることになります。
東京建物の割賦払いによる建築請負事業は、こうした不動産金融の草分けであったともいえるのです。
参考サイト
・J-Stage「不動産業の成立とその変遷」
・東京建物
・東京街人「Vol.4 東京建物」
・国立国会図書館「安田善次郎」
・文京区「文京区の歴史」
・J-Stage「土地区画整理の制度形成に関する史的考察」
・国税庁「税務署の誕生-明治-」
・国税庁「税務署の誕生-大正-」
・【参考書籍】『日本不動産業史』 発行所:財団法人名古屋大学出版会 編者:橘川武郎・粕谷誠 発行者:金井雄一