大正時代、東京郊外の開発は西部および南西部が早い時期におこなわれました。中心部は震災復興事業としておこなわれ、東部・北部は大正末期から昭和のはじめに開発されています。
昭和になってからは、ほとんどが土地区画整理事業によりおこなわれますが、鉄道会社が単独で土地区画整理事業をおこなった事例が板橋区にあります。
井戸が使われていたこの時代に水道・下水道が整備され、キャッチフレーズを「健康住宅地」とし、広々とした敷地には建売住宅と一線を画した、まるで現代の住宅展示場のようなモデルハウスが建てられた団地です。
常盤台団地の開発経緯
常盤台団地が分譲開始されるのは1936年(昭和11年)のことです。事業主は東武鉄道株式会社、同社が不動産開発をおこなった第1号がこの団地です。最寄り駅は東武東上線「ときわ台」でした。
他の鉄道会社は明治末から不動産業に進出していた事例もあるのですが、東武鉄道はもっとも遅い進出となりました。
東武鉄道が最も遅い理由については、本題から外れますが触れておくことも必要と考え、最後にすこし紹介します。
開発された土地面積は24万2,880㎡と、田園調布10万5,600㎡の約2.4倍の規模になります。なぜ田園調布と比較するかというと、常盤台団地は「板橋区の田園調布」ともいわれる魅力ある街なのです。
『田園調布の開発と分譲がはじまる』に掲載した田園調布のマップキャプチャーと比較すると、駅前のあたりは似たような雰囲気のある街路になっており、東武鉄道が団地開発第1号として並々ならぬ力を入れていたことがわかります。
ときわ台駅は2018年にリニューアルされていますが、開業当時のデザインが保たれており、東武鉄道のこの駅舎への思い入れを感じます。
常盤台にも田園都市理論が影響した
さて常盤台団地の当初の計画案は、碁盤の目に区画された一般的なものだったのですが、当時の社長根津嘉一郎氏は当初案を白紙に戻し全面的な見直しを指示したのでした。
宅地計画は内務省官房都市計画の協力を仰ぎ、東京帝大卒の小宮賢一氏が担当したのでした。
内務省は『同潤会アパートが近代日本建築に与えた影響』で触れたように、同潤会を所管しており東大卒の先輩が多数在職していたはず、田園都市理論についても影響を受けていたのではないかと想像できるのです。
小宮氏の計画案は次のような方針にもとづきおこなわれました。
2. 地区内を一巡する散歩道(プロムナード)を設け全体面積の3%を公園とする
3. 学校用地は散歩道沿いとする
4. 道路面積は全体の20%程度とする
公共減歩率23%は現代でも通用するような計画であることがわかります。
*なお小宮賢一氏は現行の建築基準法と都市計画法制定にも大きく関与した人物であり、またどこかで取り上げることになるでしょう。
宅地開発手法の確立と民間デベロッパーの誕生
昭和10年代に入ると既述のとおり東武鉄道の参入もあり、宅地開発のメインプレーヤーは出そろった感があります。
宅地開発手法には変遷があり、初期は大きな面積を買取ったり、払い下げを受けた大きな土地を開発するなどの方法でした。しかし地価の上昇に伴い土地の仕入れコストも上がるようになりました。
地価上昇により開発事業主はより安価な土地を求めます。地価が上昇した土地を所有する地主たちは、買上げしてもらえず、自ら宅地開発をおこなうとします。つまり土地区画整理による宅地開発にシフトするようになるのです。
関東大震災までは土地区画整理は「耕地整理事業」の手法を準用していましたが、1919年(大正8年)の(旧)都市計画法制定により土地区画整理が法制化され、震災後は市街地の再開発も含め都市計画法にもとづく土地区画整理事業がおこなわれるようになります。
宅地開発初期に活躍した土地会社や信託会社そして鉄道会社などは、土地区画整理事業により地主主体の開発が行われるようになると、デベロッパーとしてのポジションを奪われたような感があります。しかし実際には宅地開発の技術提供や「保留地の一括買取り」など、ますます宅地開発のメインプレーヤーとして、土地区画整理事業をリードする立場になっていったのでした。
関東では土地区画整理事業による宅地開発は、当然のごとく鉄道沿線でおこなわれており、1938年(昭和13年)のデータによる、沿線別土地区画整理組合の概要は以下のとおりです。
出典:『日本不動産業史』
人口増加と産業の発達により明治維新以来半世紀にして、世界でも有数の国に変貌した姿が浮かびあがってくるようです。
オフィスビルの誕生
産業の発達に伴い都心ではオフィスビルが建てられるようになります。
日本で最初の貸しビルは丸の内の三菱1号館(1894年,明治27年)です。そのご明治年間に13号館までをレンガ造建築で三菱は建てました。明治末になりオフィスビルは、鉄筋コンクリート造で建てられるようになります。
日本最初の鉄筋コンクリート造ビルは、1911年(明治44年)に竣工した三井物産横浜ビルです。
参照:公益社団法人 日本コンクリート工学会「三井物産横浜ビル」
そのご(旧)三井2号館が1912年(明治45年)、1914年には三菱がエレベーター付き貸しビルを建設しました。
1918年(大正7年)には大規模なオフィスビルとして、東京海上ビル本館が竣工します。以下にこれ以降に建てられた主要なオフィスビルの竣工年と規模を一覧にしてまとめておきます。
出典:『日本不動産業史』
オフィスビルの利用形態は東京海上ビル本館以降と、それまでのビルとでは違いが見られます。
規模の小さいころのビルを借りる企業は1社であったり、多くても数社の企業やテナントが入室する傾向でした。しかし規模が大きくなると多数の店舗が入店したり、オフィスとしても多数の企業が入室し、現代と変わらない姿がすでにみられていたようです。
こうして丸の内はビジネスセンターとして形成され、住宅関連以外の不動産業も大きく育っていく環境が整っていくのでした。
東武鉄道が不動産事業参入に遅れた理由
東部鉄道の宅地開発は常盤台団地が最初でしたが、用地買収は1928年(昭和3年)におこなわれています。宅地開発がはじまるまでは貨物操車場として使用していたようですが、すぐに開発事業に着手できなかった理由は法律でした。
鉄道事業に関係する法律は、明治から昭和までの期間で変化しているのです。
最初に法律上の規制としてできるのが1890年(明治23年)の「軌道条例」です。当初は馬車鉄道などの規制を目的としていましたが、1898年(明治31年)蒸気を動力とする鉄道にも適用されるようになりました。
軌道条例は1924年(大正13年)の「軌道法施行」により廃止され、軌道法は現在もつづく現行法です。
一方、1900年(明治33年)に「私設鉄道法」が制定され、1919年(大正8年)には地方鉄道法が施行されると廃止され、「地方鉄道法」は1987年(昭和62年)まで有効な法律でした。
「地方鉄道法」では、鉄道会社の副業を禁止していました。つまり地方鉄道法が施行されてからは、それまで不動産業に進出していなかった東武鉄道は、副業禁止の措置が適用されていたのです。
この副業禁止の規定が廃止されるのは1929年(昭和4年)のことであり、そのご準備と工事期間を経て1936年(昭和11年)常盤台団地が分譲開始となったのです。
ちなみに他の鉄道会社は「地方鉄道法」制定前から、宅地開発事業に参入していたのでなんの制約もなかったのでした。
参考サイト
・ 一般財団法人 不動産適正取引推進機構「昭和戦前・戦中期の不動産政策」
・ J-Stage「土地区画整理の制度形成に関する史的考察」
・ Wikipedia「地方鉄道法」
・ Wikipedia「軌道条例」
・ Wikipedia「軌道法」
・ Wikipedia「私設鉄道法」
【参考書籍】
・ 『東武鉄道百年史』 発行:東武鉄道株式会社 編集:東武鉄道社史編纂室 印刷:凸版印刷株式会社
・ 『日本不動産業史』 発行所:財団法人名古屋大学出版会 編者:橘川武郎・粕谷誠 発行者:金井雄一