1952年(昭和27年)10月1日、社団法人全日本不動産協会が設立します。略称を「全日」といいます。
会員数は31,748(2019年12月末現在、出典:不動産ジャパン)であり、国内の中小不動産業者が加入し、現在は公益社団法人として認可されている団体です。
国内にはもうひとつ中小不動産業者の団体である、公益社団法人全国宅地建物取引業協会連合会(略称:全宅)があり、こちらは1967年(昭和42年)9月29日に設立し会員数は97,441(2019年4月1日現在、出典:出典:不動産ジャパン)となっています。
このふたつの団体について次のような疑問を感じることもあります。
・会員数が1:3と大きな差がある理由
・設立までに15年の開きがある理由
これらの疑問は、それぞれの団体が設立された経緯を知ることにより明らかになるのです。
宅地建物取引業法制定までの動き
全日本不動産協会が設立する1年半ほど前のことです。「不動産取引業法立法促進連盟」が結成されます。
(『宅地建物取引業法・建築基準法の制定』で触れた団体です。)
当時は深刻な住宅不足により、生活の拠点を求める人たちがたくさんいました。現代のようなインターネットはおろか、住宅情報誌やフリーペーパーもなく、貸家や貸地の情報は紹介業者から得ていたものでした。
終戦直後は不動産紹介業者を規制する法制がまったくなく、無法状態といえるものだったのです。悪質業者による被害などもあったようで、まっとうに紹介業をおこなっている不動産業者が集まり、法制化を求めたのでした。
不動産取引業法立法促進連盟には、国会議員・都府県知事や大学教授・学識経験者そして住宅金融公庫総裁・建設省住宅局長などのほか、以下のように各地で組織されていた不動産業者の組合や団体が参加します。
・東京土地建物分譲商工業協同組合
・東京都新宿区不動産建設協同組合
・神奈川県不動産仲介業組合
・静岡土地建物取引業組合
・浜松不動産取引業組合
・名古屋不動産取引員組合
・京都不動産協会
・日本不動産協会(大阪)
・兵庫県不動産事業協同組合
こうして1952年(昭和27年)6月10日、宅地建物取引業法は成立します。
宅建業法成立時の業者は登録制でしたが、昭和28年時点での登録業者数は1万5,783人でした。
出典:J-Stage「不動産業 の成立 とその変遷」
全日本不動産協会の設立
宅建業法が成立する過程の国会審議において、問題提起がなされていたといいます。
それは「宅建業法をいかに周知徹底させるか」ということでした。
成立時は “登録制” でしたので、免許制ほどの強制力はなく、現代においても「賃貸住宅管理業者登録制度」の登録率は3割ほどであり、宅建業法の周知についての懸念は予想されることでした。
周知徹底の方法として考えられたのが「不動産業に関する公益法人の設立」です。
前述のように宅建業法は「不動産取引業法立法促進連盟」の活動にもとづき、当時の瀬戸山三男衆議院議員を委員長とし議員立法により成立したものです。
成立後すぐに公益法人設立の機運がおこり、「不動産取引業法立法促進連盟」の組織をして「社団法人全日本不動産協会」の設立となったのでした。
正式設立は1952年(昭和27年)10月1日ですが、宅建業法成立後の6月25日には全日本不動産協会の設立総会が開催されています。翌26日、建設省事務次官通達(昭和27年6月26日住発第298号)が各都道府県知事に対しだされ、第14項において、次のように全日本不動産協会の育成について述べています。
“一四 公益法人の設立等について
この業務の運営の適不適は、社会公共の福祉に及ぼす影響が少くないが、この法律の公布を契機として不動産の利用促進に関する事業を行うと共に業界の刷新向上をはかることを目的とする社団法人全日本不動産協会が設立されたので、この法人の支部組織を育成し、その健全な活動をできる限り援助すると共に、これと相協力して業界の改善指導その他この法律の運営の適正化を図る等特別の配慮を願いたい。”
引用:国土交通省「宅地建物取引業法の施行について」
組織作りに関しては設立前から昭和27年に西日本を中心に地方本部を設立し、正式に協会設立後には東京都本部が設立します。以後各道県にも地方本部を設立、昭和45年に佐賀県そして昭和46年に沖縄県本部が設立され、現在に至っています。
全国宅地建物取引業協会連合会との関係
宅建業法制定後5年にして大きな改正がおこなわれます。
改正点は次のようなものでした。
2. 営業保証金の供託をすること
3. 試験に合格したものにより都道府県ごとに法人の「宅地建物取引員会」を設立し、全国組織として「全国宅地建物取引員会連合会」を設立する
宅地建物取引主任者の試験制度が生まれ資格者を「取引員」と称し、全国および都道府県を単位とした法人組織をつくることになったわけです。全日本不動産協会はこの制度と組織化にも尽力することになりました。
「全日」はすでに組織されていた協会をとおして、各都道府県に「宅地建物取引員会」を設立し、「全国宅地建物取引員会連合会」の本部を大阪としたのです。
一方、東日本には東京中心に「全国宅地建物取引団体連合会」が組織され、この団体も取引員会の組織づくりをしていたのでした。
こうして大阪を拠点とする団体と東京を拠点とする団体がそれぞれ活動し、一本化されることなく昭和42年に至るのでした。
1967年(昭和42年)東西の団体はそれぞれ解散し、「全国宅地建物取引業協会連合会」が結成されることになったのです。
ここまでの経緯を図にしてみましたが、「全日」は宅建業法の周知徹底のため設立され、「全宅」は宅建取引士の全国組織を設立する過程で生れ、そして東西の団体が合併し「全国宅地建物取引業協会連合会」となったのでした。
「全宅」が結成されるさい、全日本不動産協会内では “解散し全宅に一本化しては……” という意見もあったそうですが、「全宅」と「全日」の設立目的が異なることから、全日の役割は今後もあるだろうという考え方もあり継続したのでした。
なお「全宅」のシンボルマークは “ハト” ですが、「全日」のマークは “ウサギ” です。
ウサギのマークは宅建業法制定時の建設大臣であり、全日名誉会長となった野田卯一元衆院議員の “卯” から取ったとの説がありますが、『全日二十年史』では発見することができませんでした。
ちなみに野田卯一元衆院議員は現在の自民党野田聖子議員の祖父にあたります。
参考サイト
・J-Stage「不動産業 の成立 とその変遷」
・一般財団法人 不動産適正取引推進機構「昭和戦後復興期の不動産政策」
・一般財団法人 不動産適正取引推進機構「昭和高度成長期の不動産政策(上)」
【参考書籍】
・『全日二十年史』 発行:社団法人全日本不動産協会 編集:全日二十年史編集委員会 印刷:半七写真印刷工業株式会社