サイコロを積み重ねたような建物、1個のサイコロが約3坪(10㎡)の住戸になっており、140個のサイコロで構成されたマンションが、昭和47年、銀座8丁目に完成しました。
設計者は国際的建築家として活躍した黒川紀章、女優若尾文子さんの旦那さんといったほうがわかるかたが多いかも知れません。
SRC造13階建て、3,091.23㎡の規模のマンションを工期1年間で竣工させた、当時では画期的な建築でした。
特に注目すべきは将来の大規模修繕にさいしては、1個のサイコロ=カプセルごと新品に交換するといった提案がされていたことでした。
現状はすでに築42年が経過し、これまでカプセルの交換は一度もなく、老朽化が進んでいますが一方では保存運動が進んでいます。
参照:スムースライフマガジン「黒川紀章 建築 中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト第一弾始動。銀座の名建築の保存運動。」
中銀カプセルタワービルが建てられることになった経緯などは、頁末の参考サイトを参照していただき、ここでは、このアバンギャルドな建築を生んだ昭和40年代の日本をふり返ってみます。
中銀カプセルタワービルを生んだ大阪万博
中銀カプセルタワービルが完成する2年前、1970年(昭和45年)大阪で「日本万国博覧会」が開催されました。
日本の高度経済成長のピークは昭和43年度の12.4%でした。その前年は11%、翌年は12%、そして昭和45年は8.2%といった状況でした。
日本の経済成長の絶頂期に開催された「大阪万博」は、当時建築界の第一線で活躍する気鋭の建築家たちが提唱していた「メタボリズム(新陳代謝)」を視覚化する舞台でもあったのです。
メタボリストのひとりが黒川紀章であり、彼が設計したタカラビューティリオンを見た当時の中銀社長が、設計を黒川紀章に依頼したことにより実現したのがこのマンションです。
メタボリズムは国際的な活動でもあったわけですが、海外での活動は昭和34年ころには終了していました。しかしメタボリズムを主導していたCIAM(シアム、近代建築国際会議)から派生したグループ(チーム・テン)の影響が日本でも新しい動きを生んでいたのです。
建築家たちがこのような活動をおこなう精神的な背景には、経済大国の仲間入りをしていた日本の経済力があります。1970年にはアメリカ・ソ連・西ドイツにつぐ世界第4位の経済大国であり、10年後には世界第2位になるのでした。
大阪圏の大規模開発
日本の経済発展を象徴するのが、やはり都市の開発です。
『多摩ニュータウンなど大規模ニュータウン開発』で触れたように、大阪では昭和36年に「千里ニュータウン」昭和41年には「泉北ニュータウン」の事業着手がおこなわれます。
大阪万博の会場は千里ニュータウンが開発された「千里丘陵」の東側に位置しており、万博が開催される前年の昭和44年には人口10万人を突破していました。
開発面積は1,160ha、計画人口15万人という大規模な計画であり、「一団地住宅経営」と「新住宅市街地開発」の手法により事業をおこなったのです。
特筆すべきは、千里ニュータウンには開発予定地域のほぼ中心部に、開発対象から除外された地域があります。
開発初期は都市計画にもとづく「一団地住宅経営」により土地の買収が進みますが、交渉が難航する地域はのちに成立した「新住宅市街地開発法」により、強制的な買収がおこなわれました。しかし強制的な手法でも買収できなかった地域だったのです。
豊中市上新田地区といわれるこの地区は、400年前に開発されたニュータウンだったそうで、開発主体であった大阪府企業局は買収を断念し、新旧のニュータウンが共存するという珍しい開発がおこなわれたのでした。
豊中市上新田地区に関しては、日本経済新聞『「400歳の街」なぜニュータウンの真ん中に 大阪・千里』に詳しく記載されています、ご一読ください。
大阪万博とメタボリズム
大阪万博には多数の建築家が参加しましたが、そのなかで “メタボリスト” といわれる建築家たちが以下の面々でした。
・大谷幸夫
・菊竹清訓
・黒川紀章
メタボリストたちは都市計画や都市開発の分野でも影響を与え、4名のほか磯崎新や槙文彦なども大胆な提案や、魅力的な街づくりを実現している事例もあるのです。
坂出市の人口土地
冒頭の「中銀カプセルタワービル」は、まさにメタボリズムを象徴するような建築でしたが、もうひとつメタボリストが実施した実験的な都市開発事例を見てみます。
「坂出人工地盤」とも称される、香川県坂出市京町地区で実施された約1.3haの再開発事業です。
敷地面積12,714㎡に10,111㎡の鉄筋コンクリート製のデッキを構築し、デッキの上には数棟の集合住宅が建ち、デッキ下には商業施設や公共施設そして駐車場として利用する計画です。
土地の上にもうひとつの “地盤” を造り、人工地盤の上で土地利用を図りながら、人工地盤の下にある本来の土地も有効活用するという前例のない構想でした。
しかし人工地盤には次のような思わぬ問題もあります。
権利関係の問題点
坂出人工土地は「住宅地区改良法」にもとづく開発であり、住宅地区改良事業により坂出市が買収した土地と、道路沿いの商店街を土地区画整理することにより、市有地と換地された民有地の上に人工地盤を構築するのでした。
人工地盤の上には市所有の集合住宅などが建ち、民有地所有者が居住する住宅や店舗は人工地盤下に建設されました。
つまり民間所有の住宅の上に人工地盤があり、その上に市所有の建物がある状態であり、形態的には「区分所有」なのですが、人工地盤と一体となった複数の建物があるため、一般的な区分所有建物とはまったく異なるものです。
また人工地盤上の建物には “敷地権” はなく、法的根拠のない “屋上権”を買取ることにより市所有の建物が建っているわけです。
そのため権利関係の調整がむずかしく、人工地盤の老朽化により雨漏れがおきても、修繕費の負担や責任が宙に浮いた状態になっています。
現在、国土交通省関東地方整備局は品川駅西口再開発を進めており、開発手法として人工地盤を計画しています。
参照:国土交通省関東地方整備局「人工地盤構造の計画・設計の考え方」
当然ですが、人工地盤には前述のとおり、権利を調整するむずかしさがあります。
人工地盤上の不動産に関わる権利については未だ研究途上であり、「立体基盤所有法」といった法概念が生まれようとしています。
参照:国土技術政策総合研究所「立体基盤建築物を成立させる法制度の研究 立体基盤(スケルトン・人工地盤)と二次構造物 (インフィル等)を分離した建物に適した建築確認及び所有関連制度の提案」
坂出人工土地から50年以上が経過し、メタボリスト大高正人の実験的都市開発手法は、都市を重層化する手法として生まれ変わるのかもしれません。
メタボリズムを凌駕した岡本太郎
大阪万博記念公園には岡本太郎が制作した「太陽の塔」が今も立っています。
万博会場にはシンボルタワーとなった「エクスポタワー」も立っていました。エクスポタワーはメタボリスト菊竹清訓が設計したものでしたが、33年後には解体されています。
太陽の塔はテーマ館の一部として建造されたもので、本来はシンボル的な役割はなかったといいます。しかし本来のシンボルであったエクスポタワーは、展望塔そして電波塔として役目を終えると解体されてしまいます。
この違いはどこにあったのでしょうか。
それは岡本太郎が当初から意図していたことであったようです。
『大阪万博の二つのタワー:エキスポ・タワーと太陽の塔』が教えてくれています。
太陽の塔が象徴するエネルギーに満ちた昭和40年代後半をふり返ってみました。
参考サイト
・朝日新聞デジタル&M「『中銀カプセルタワービル』築47年の部屋が生み出す“不動産”以外の価値」
・建築マップ「中銀カプセルタワービル」
・SLOWMEDIA「中銀カプセルタワービル」
・一般財団法人 不動産適正取引推進機構「昭和高度成長期の不動産政策(下)」
・万博記念公園「大阪万博」
・千里ニュータウンまちびらき50年「千里ニュータウンとは」
・一般財団法人 土地総合研究所「建設型都市からマネジメント型都市のモデルへ-千里ニュータウンのこれまでとこれから-」
・関西学院大学「千里ニュータウンに関する研究」
・高知工科大学「坂出市における人工土地方式による再開発計画」
・建築マップ「坂出人工土地」
・国土交通省関東地方整備局「人工地盤構造の計画・設計の考え方」
・国土技術政策総合研究所「立体基盤建築物を成立させる法制度の研究 立体基盤(スケルトン・人工地盤)と二次構造物 (インフィル等)を分離した建物に適した建築確認及び所有関連制度の提案」
・都市の高さとまちづくり「大阪万博の二つのタワー:エキスポ・タワーと太陽の塔」