田園調布の開発と分譲がはじまる

石原慎太郎、五木ひろし、小林よしのり、曽野綾子、長嶋茂雄、中井貴一、松浦勝人など有名人が住むという高級住宅地「田園調布」は、関東大震災の直前1923年(大正12年)8月に分譲がはじまった非常に特徴のある住宅街です。

宅地開発をおこなったのは、財閥企業や鉄道会社でもなく、信託会社や不動産会社でもない素人が集まって作った会社でした。

この会社が生まれたきっかけには、とある人物の存在があります。

未曽有の被害となった大震災からの復興に、力を添えるかのようなタイミングで生れたこの街と、日本有数の企業グループに成長する小さな会社の生い立ちをみていきます。

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田園都市株式会社の設立

田園調布は1918年(大正7年)9月2日に設立した、田園都市株式会社により本格的な開発がスタートします。

このころ東京市内の土地は高騰しており、翌年には6年間で3倍の値上がりを記録しています。

1919年(大正8年)には都市計画法が制定され、東京市域外を含めた都市計画が可能となり、現在の世田谷区・大田区・目黒区において区画整理事業がおこなわれるようになりました。

さらにその4年前から分譲開始された、東京信託(現 日本不動産(株))がおこなった桜新町の分譲地は、東京で初の郊外型大規模分譲地として知られています。

住宅地の開発は鉄道会社あるいは、信託会社などが事業主体となり進めることが多く、旅客確保のための戦略であったり高騰する都心から離れた郊外生活の魅力を強調し、郊外需要の掘り起こしを意図したものだったのです。

ところが田園調布の開発構想が生まれたときには、まだ鉄道が開通していたわけでなく予定もなかったのでした。

田園都市株式会社が田園調布の宅地開発に着手するのは、1918年(大正7年)のことですが、そのきっかけは1915年(大正4年)に遡るのです。

田園調布開発構想はこうしてはじまった

渋沢栄一は大蔵省退官後国立第一銀行の頭取に就任し、そのご財界のリーダーとして500以上ともいわれる企業の設立に関わり、1915年(大正4年)ころに財界を引退します。

そのころのことです。

“畑弥右衛門” なる人物が渋沢を訪ねてきます。

この人物は朝鮮の龍山で、後述する「田園都市」のような開発事業をするが失敗し、ときの東京市長尾崎行雄から紹介状をもらい渋沢に会いにきたといいます。
出典:住宅生産振興財団WEBサイト「第1期・平成8年度住宅生産振興財団・まちなみ大学講義録1『田園都市の系譜』講師:山口廣」

田園調布が生まれるきっかけとなるのがこの “畑弥右衛門” であったと、建築史家で東京大学名誉教授・東京都江戸博物館館長の藤森照信氏は、著書「近代日本の洋風建築 〇栄華篇〇」にて明らかにしています。

「田園都市」とは、イギリスの都市計画家エベネザー・ハワードが1898年に提唱した新しい都市形態をいいます。

下図は田園都市理念に基づき開発された、イギリスのレッチワースのGoogleMapのキャプチャーですが、田園都市のイメージがよく伝わってくるようです。

田園調布 開発

出典:Google Map「レッチワース

自然と調和したライフスタイルを実践できるよう、中心部には公園が配置され、中心部からは放射状の街路が設けられます。
中心部に近いゾーンには庭付きの戸建住宅が建ち並び、放射状の街路と直行するように環状の街路も設けられます。そして街の外側には工場や倉庫が建つ工場地帯となります。

住民は朝になると自宅をでて職場に向かい、仕事を終えると自然豊かな自宅へと帰ってきます。環状に取り巻く道路は街の表情を豊かにし、潤いとやすらぎに満ちた住環境を生みだす……とこのような考え方でした。

田園都市理論は1907年(明治40年)には日本でも刊行され、『近代的賃貸住宅の誕生と宅地開発』で触れた、阪神電鉄の『市外居住のすすめ』に影響を与えたともいわれていますが、正確なところはわかりません。

「田園都市」を目差す渋沢栄一の夢

“畑弥右衛門” と渋沢はそのごも話す機会をもち、5か月後には娘婿である東京印刷(株)社長星野錫と、土地会社設立の件で話し合いをしています。

9月8日には、田園都市会社設立についての話し合いがおこなわれているのですが、藤森照信氏の著書「近代日本の洋風建築 中見出し 栄華篇中見出し 」より、 “畑弥右衛門”に関わる記録を抜き出してみます。

  • 2月18日 畑弥右衛門が初めて訪れる
  • 5月12日 商業会議所にて田園都市経営の協議会に出席
  • 5月14日 畑弥右衛門が来訪し市原求あての添書を渡す
  • 6月20日 畑弥右衛門が来訪
  • 7月11日 畑弥右衛門と土地会社設立の件で話す、同日星野錫とも話す
  • 9月8日 上記田園都市会社設立について話し合いをもつ

(これらのことは藤森氏が渋沢日記を調べるなかで、発見したこととされています。)

大正4年9月8日の田園都市会社設立の話し合いに出席者したのは以下の面々でした。

この最初の話し合いから3年後に田園都市株式会社は設立し、本格的に田園都市の実現に歩み出します。
(渋沢栄一は田園都市株式会社の経営には参加していません。)

きっかけはやはり“畑弥右衛門”との出会いであったことは、間違いのないことのようです。

田園調布駅はこうして生まれた

土地の買収は“畑弥右衛門”が居住していた洗足池や多摩川台周辺で進められ、交渉は“畑弥右衛門”が尽力したといいます。

洗足地区(18万1,500㎡)は現在の目黒区洗足二丁目と品川区小山七丁目に該当し、多摩川台(10万5,600㎡)で開発したのが田園調布となります。

エベネザー・ハワードの田園都市理論では街の中心に公園を配置しますが、田園調布では中心に田園調布駅が建っています。

田園調布 開発

既存の駅を中心にして街を造ろうとするとこうはいきません。まだ鉄道の開通も予定もなかったからこそ可能だった都市デザインです。

田園調布 開発

出典:Google Map「田園調布」

田園都市株式会社設立後、最大の課題は鉄道の開通でした。

田園都市株式会社は荏原電気鉄道を設立し、鉄道事業も開始しましたがなかなか順調に進まず、関西の阪急電鉄創業者小林一三に相談をしていました。

1922年(大正11年)になると、小林一三の紹介により武蔵野電気鉄道の役員であった五島慶太が、荏原電気鉄道の専務取締役に就任します。こうして目黒と蒲田を結ぶ「東急目蒲線(現 東急目黒線)」開通の目途が立ったのです。

洗足地区の開発は大正11年に「洗足田園都市」として分譲が開始され、多摩川台地区の田園都市は翌大正12年8月に分譲を開始するのですが、9月1日に東京中心部は関東大震災による大きな被害を受けるのでした。

政府や東京市は被災した東京の復興に力を注ぎます。そのなかで郊外に理想的な住宅団地ができたことは、多くの市民に夢や希望を与えたことでしょう。こうして田園調布には人が集まり、現在の高級住宅地として発展したのです。

東急電鉄の誕生

田園都市株式会社はそのご荏原電気鉄道を改称した目黒蒲田電鉄株式会社に吸収され、田園都市事業は目黒蒲田電鉄(株)田園都市部が継承します。

同時に五島慶太が代表取締役に就任し、やがて東京横浜電鉄(株)を経て1942年(昭和17年)東京急行電鉄株式会社へと成長発展を遂げたのでした。

渋沢栄一が亡くなるのは、田園都市(株)が役目を終えて3年後(昭和6年)のことで、92歳でした。

渋沢翁は、イギリスで生れた “田園都市” の理念を具現化した田園調布を創り出し、東急電鉄の創業者となる五島慶太に、東急の前身ともいえる荏原電気鉄道という活躍の場を与えました。

田園都市は震災により生活の場を失った東京市民に、新しい環境を提供するとともに、目蒲線(現 目黒線)の開通が東横線の開通を後押しし、目黒区そして世田谷区が発展しやがて東京市に編入される源となりました。

“畑弥右衛門”の言葉が渋沢栄一を動かし、田園都市構想が東急電鉄を創り出し、そこから東急不動産が生まれ国内トップ5の不動産会社に成長するわけです。

余談ですが2024年度には新紙幣が発行され、1万円札の図柄は渋沢翁になります。
2024年というと田園調布の分譲開始から100年が経過した年にあたり、歴史の因縁のようなものを感じます。

これを機会に渋沢栄一が日本に残した、多くの遺産に触れてみるのも有意義なことではないでしょうか。

そして歴史に “もしも” はありませんが、 “畑弥右衛門の存在がなかったならば” 田園調布も東急グループも存在していなかったのかもしれません。

参考サイト

【参考書籍】

  • 『近代日本の洋風建築〇栄華篇〇』 発行所:株式会社筑摩書房 著者:藤森照信 発行者:山野浩一

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