明治末期から昭和初期にかけて、大規模な宅地開発や街づくりの事業主体として、鉄道会社、土地会社、信託会社の3つのグループの実績が残っています。
なかでも鉄道会社は鉄道網の整備を伴った、インフラストラクチャー構築という一面ももっていました。
大規模な宅地開発に鉄道会社が乗り出す前、民間鉄道会社による街づくり事業の先覚的プロジェクトとして、不動産業史上で特筆されているのが阪神電鉄の「西宮駅前賃貸住宅」事業です。
鉄道会社による不動産事業の開始
明治時代から昭和初期にかけて、首都圏と大阪から神戸にかけての阪神一帯では、宅地開発が大規模におこなわれました。
現代においても不動産開発の有力なプレーヤーとして、鉄道会社の存在は大きなものがあります。明治末期からはじまった開発事業は関西の鉄道会社が先行しました。
鉄道会社にとって街づくりは、「鉄道を利用する客を確保」するための有効な手段であったわけです。開発には多額の投資が必要であり、会社設立10年程度の私鉄各社にとってはリスクもあったことと思われます。
阪神電鉄が鉄道客確保の手段として「街づくり」に乗りだすのは明治42年のことです。
これに先立ち集客施設を鉄道沿線に設けて、乗客増を図る経営戦略が実施されていました。
西宮市にあった「香櫨園遊園地」が最初です。
1907年(明治40年)4月1日に開園し、香櫨園駅の北側1㎞、現在の夙川駅の西側にありました。
6年ほど営業し、入園者の減少と旅客数確保の効果もあり、経営上の必要性が薄れたため閉園しました。
跡地は1917年(大正6年)に大神中央土地(株)が買取り住宅地として開発し、現在の高級住宅地として生まれ変わるのです。
1909年(明治42年)1月19日、阪神電気鉄道の取締役会は西宮停留所空地に賃貸住宅14棟34戸の建設を決議します。
目的はいうまでもなく、入居者を募り鉄道利用客の増加を図ったものでした。そして4月の株主総会にて「賃貸住宅事業」を目的とした定款変更を提案します。
株主からは、本業での儲けを副業で失う恐れがあるため、不動産の購入や賃貸事業に反対する意見がありました。
株主総会での結果は反対もありましたが提案が承認され、9月30日賃貸住宅30戸が完成し賃貸事業が開始されます。
株主総会で反対意見が出るように、鉄道会社が不動産業に進出することに関して、必ずしも誰もが賛成していたわけでないことがわかります。
失敗は許されない阪神電鉄内部では、賃貸事業の開始に備え入念な準備をおこなっています。
明治期におこなわれたコンテンツマーケティング
1908年(明治41年)1月1日、『市外居住のすすめ』と題した小冊子を阪神電鉄は出版します。229ページで定価は50銭でした。
当時大阪は工業が発達し、林立する煙突からは大量の汚染物質が吐き出されていたようです。
そこで大阪市外のもっと環境のよい地に移転し、居住することをこの冊子のなかで勧めたわけです。
『市外居住のすすめ』の内容は大阪在住の医師14名が、都市よりも郊外に暮らす健康的なメリットについておこなった講演をまとめたものでした。
この冊子の効果かどうかわかりませんが、「西宮駅前賃貸住宅」は成功しました。
阪神電鉄は西宮につづき「鳴尾」と「御影」にも賃貸住宅を建設、そのご昭和初期までにかけて甲子園一帯の開発に着手します。
甲子園の開発では、プール・運動場・動物園・遊園地などにより構成される「阪神パーク」と、12万坪におよぶ住宅地が分譲されました。
賃貸住宅が建設される前から、書物により大阪郊外の西宮に目を向けさせる戦略は、現代のコンテンツマーケティングに通じるものがありそうです。
西宮賃貸住宅の成功が鉄道会社による不動産プロジェクトの成功例として、不動産政策史年表において特筆されるのはこのことが理由なのかもしれません。
参照:一般財団法人 不動産適正取引推進機構「不動産政策史年表」
阪神電鉄の成功事例をみてきましたが、関西の不動産開発に関しては阪急電鉄についても触れなければなりません。
関西における住宅団地開発
阪急電鉄株式会社は1907年(明治40年)に箕面有馬電気軌道として設立されます。
1910年(明治43年)には石橋~箕面の阪急箕面線が開通します。
その前年に2万7千坪の土地を買収し、1区画100坪の郊外型住宅を10年間の月賦販売で分譲する「室町住宅地」を開発します。
つづいて箕面市では5万5千坪の桜井住宅地、大正10年には神戸市で1万7千坪の岡本住宅地、伊丹市で2万2千坪の稲野住宅地、と開発がつづきました。
昭和に入ると伊丹市で新伊丹住宅地9万5千坪が昭和10年、昭和12年には6万坪の尼崎市武庫之荘住宅地が分譲されています。
明治末期から大正時代にかけて、阪神・阪急がおこなった沿線開発の概要をみてきましたが、区画整理事業も大正時代になり活発になってきます。
西宮市では大正9年の西宮第一耕地整理組合の事業を皮切りに、昭和15年までに33の整理組合が設立され開発をおこなっています。
芦屋市では大正5年の第1耕地整理組合につづき、昭和13年までに16の整理組合が設立され事業を終了しています。
関東における住宅団地開発
鉄道会社による沿線開発をみてきましたが、関東での住宅団地開発に目を転じてみます。
関東ではじめて私鉄が沿線開発をおこなったのは、1914年(大正3年)の京急電気鉄道による横浜市鶴見区生麦住宅地でした。
以降、同時期の開発実績をまとめたものが以下です。
表のように関東において鉄道沿線での本格的開発がおこなわれるのは、大正11年以降になります。
関西に比べ関東の開発時期が遅くなったのは、江戸時代の土地所有者の構成に原因があります。
東京の土地の半分以上は武士が所有していたものです。政府は武士に土地を上地させ、その土地を東京市民に払い下げたのです。
つまり東京市内には宅地供給の潜在力が元々あったわけです。
対して大阪のほとんどは町人が所有(利用)していましたので、元々宅地供給力は少なく新規宅地開発が必要だったといえます。
東京では大正時代になると大地主や華族の土地なども解放され、宅地として利用されるようになりました。
しかし1919年(大正8年)に地価が300%上昇するなど、宅地不足が深刻な状態となり、東京市外での宅地開発の勢いが強くなったと考えられるのです。
参考サイト
・阪神電気鉄道株式会社「年譜(明治・大正)」
・J-Stage「阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究(1)」
・J-Stage「不動産業の成立とその変遷」
・阪急電鉄株式会社
・Wikipedia「沿線開発」
【参考書籍】
・『日本不動産業史』 発行所:財団法人名古屋大学出版会 編者:橘川武郎・粕谷誠 発行者:金井雄一
・『阪神電気鉄道八十年史』 発行:阪神電気鉄道株式会社 編集:財団法人日本経済史研究所