財閥系不動産会社が続々誕生

三菱地所の誕生は1937年(昭和12年)でした。4年後には三井不動産が設立されます。
終戦後には財閥解体により住友不動産と安田不動産が誕生するのです。

財閥系の不動産会社であっても、それぞれ設立した経緯も異なり事業の内容も大きな違いがあります。
デベロッパーとして古くから実績のある三菱そして三井、戦後になりデベロッパーとして三菱・三井と肩を並べるようになった住友、今も創始者安田善次郎が遺した “安田イズム” を継承する安田。

戦後復興と高度成長に大きな力を発揮することになる、これら有力不動産会社の生い立ちに触れることにより、不動産事業のダイナミズムをみることができます。

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三井不動産の誕生前

三井不動産の設立は1941年(昭和16年)7月15日のことです。

三井財閥の当主である三井家の祖先は、近江源氏嫡流の六角佐々木氏に仕えた武士だったそうです。佐々木氏が観音寺城の戦いで織田信長に敗れたさいに、三井家の祖先は伊勢に逃れます。そのご三井高利(1622年生まれ)の代になり、松坂で質屋を営んだのが三井家のはじまりです。

なお三井家が江戸にでてはじめて開業する呉服店「越後屋」の名は、高利の祖父高安が “越後守” と名乗っており、ここから “越後屋” となったのでした。

1710年の記録ですが、三井家の総資産の45%が不動産だったといいます。三井家は不動産の購入には熱心であり、特に江戸市中の中心街の土地を、担保物件として利用するために買い集めていたそうです。

時代は下り明治維新直前のこと、三井は薩摩藩陣屋に軍資金を持込み、勤王討幕派の支持を鮮明にします。これにより維新後に有利なポジションに立つことができました。

三菱の岩崎家は同じく勤王派の土佐藩出身でした。財閥が形成される陰には “勤王” の旗印がなければならなかったことは容易に想像できることでしょう。

1871年(明治4年)になると「為換座三井組」を設立します。新政府に認められ財政部門を担うことになったことは、そのごの三井の発展を約束されたようなものでした。「為換座」は現代の日本銀行のような役割を果たす重要な機関だったのです。

三井家が保有していた不動産の管理運用も「三井組」がおこなっており、明治26年ころには全国各地にある貸地・貸家の管理は「地所課」という部署が担当していました。

その後「地所部」に格上げされ不動産経営をおこないますが、わずか4年(1898年、明治31年)で三井銀行に吸収されるのです。地所部の業務は三井銀行本店営業部地所係が担当することになりました。

三井合名会社の設立から三井不動産の設立まで

三井家は「三井家同族会」が最高議決機関でしたが、1909年(明治42年)になり同族11家の出資により「三井合名会社」を設立します。これによりその傘下に三井銀行・三井物産・三井鉱山とグループ企業をもつコンツェルンが形成されることになりました。

三井合名会社の設立は、三菱が合資会社から分社して三菱商事や三菱銀行を設立した、大正7~8年と比べると10年ほど早く、企業経営の近代化という面では特筆すべきものがあります。岩崎家による独裁型経営と番頭経営による三井の違いがあったのかもしれません。

三井合名会社には「不動産課」が設置され、三井組地所部がおこなっていた、三井所有の不動産管理業務をおこなうことになります。

不動産課がおこなった初期の仕事として特筆すべきは、関東大震災により被災した三井本館の建替えでした。1929年(昭和4年)に竣工し、三井合名会社本社、三井銀行本店、三井物産本社、三井鉱山本店などが入居していました。

三井本館は1998年(平成10年)に国の重要文化財に指定され、現在も三井不動産本社となっています。

そのご品川区戸越や豊島区巣鴨での宅地分譲や、神戸三宮で山津波に襲われた被災地において、3万坪以上の土地を特典つきで売却するなど、社会貢献の面が強い事業もおこなっていたのです。

三井合名会社は同族11家から構成されていましたが、昭和10年代になると6家で家督相続が発生し、相続税支払いのために保有する株式を売却しなければならない事態がおきます。株式を第三者に売却するのは経営上問題があり、傘下各社の首脳が相談し三井合名会社を三井物産が吸収合併することにしました。

この処置により三井同族の株式は三井物産に引渡され、相続税問題は解消します。

しかし三井合名が所有していた不動産も三井物産所有となったのですが、所有する土地のなかには三井家に深い縁のある土地や墓所までも含まれており、いずれ機会があれば簿価で三井家が買戻す約束が為されていました。

三井物産株は公開されることになっていましたので、この縁のある土地の処理を早めにおこなう必要が生じ、資産管理を目的とした三井不動産株式会社を設立することが計画されます。

三井に縁のある土地を含めて三井不動産に譲渡し、三井不動産が管理を担いますが三井不動産の全株式は三井11家が所有するので、実質的に不動産の買戻しを実現するしくみを作ったのです。

この間に、三井合名不動産課は三井物産本店不動産管理課に移行したのち、1941年(昭和16年)に至り三井物産から独立し、三井不動産株式会社が設立するのでした。

住友不動産の誕生前

住友不動産は財閥解体による住友本社の解散により、不動産部門を分離して1949年(昭和24年)に設立した泉不動産株式会社がはじまりです。

商号の“泉” は住友財閥の二人の祖のひとり、銅商を営んでいた蘇我利右衛門の屋号「泉屋」からとったものでした。

ちなみに住友の祖二人とは、薬商を営んでいた住友小次郎政友と、前述の蘇我利右衛門の二人です。蘇我利右衛門は政友の姉婿であり、右衛門の子 友以が政友の婿養子となり住友家の家督を継ぎ、その子孫が現在の17代までつながっています。

なお住友小次郎政友の屋号は「富士屋」でした。

住友が大阪を本拠地とするのは二代目友以の時代で、銅の精錬と貿易をおこなっていました。三代目の時代になると銅山を経営するようになり、四代目で別子銅山を発見し中心的事業となります。

銅山経営による豊富な資金を元に両替商もおこなうようになり、江戸に進出すると三井や鴻池と並ぶ有力両替商となっていくのです。

明治維新の折の住友の政治的立場も見ておかなければなりません。

明治維新前から住友は別子銅山の経営不振に苦しんでいました。別子銅山は幕府領であり、住友は請負により銅山経営をおこなっていましたので、討幕軍が江戸に向かう折には別子銅山の接収の恐れもありました。

このときの総支配人広瀬宰平は、侵攻してきた土佐藩や新政府の有力者と掛け合い、なんとか苦境を乗り切ったのです。

住友の不動産事業

三菱は貸地・貸オフィスビル、三井は貸地・貸家と、不動産事業においても積極的な展開が見られますが、住友に目立つ不動産事業はありませんでした。

住友の主力事業は 1.銅山経営 2.銅流通業務 3.銀行業務であり、やがて1923年(大正12年)の関東大震災が大きな転機となります。

大阪に本拠地があり主力事業は銅山経営でしたから、住友は大震災の被害をほとんど受けることはありませんでした。豊富な資金力の元さまざまな企業買収や多角経営により、大正10年に設立した住友合資会社傘下にはやがて、住友銀行以下8社のコンツェルンが形成されるようなったのです。

住友が不動産事業に対し積極的姿勢に変わるのが、『家屋税法制定と不動産税制』で触れた「地代家賃統制令(昭和14年)」と「宅地建物等価格統制令(昭和15年)」でした。

1919年(大正8年)住友は大阪北港株式会社を設立します。

大阪北港は以前から経営していたものですが、会社設立により防波堤の拡張・整備をおこない、一帯の土地を売地や貸地として活用していました。しかし価格統制令により収益性が悪化し、賃貸業から港湾の設計工事業に転換しようとしたのです。

建設部門への進出をおこないますが昭和18年に至ると、戦争も激しくなり軍需物資の増産体制も必要な状況となります。住友社内では「不動産事業関係部署と建設関係部署を統合した不動産会社の設立により、軍需工場の増設や満州への進出も図る体制」を作る構想が生まれてきます。

この当時不動産事業をおこなっていたのは、住友本社内にあった総務部不動産課、住友銀行と共同事業で設立した住友ビルディング、そして大阪北港でした。

住友ビルディングと大阪北港の合併は昭和19年に実現し、住友土地工務株式会社が生まれます。ここに本社の援助により運営していた、国内の建築事務所と満州の建築事務所の営業を引き継ぎ、住友本社不動産課からの委託を受けて不動産経営の業務もおこなうようになりました。

このような経緯で、住友土地工務株式会社が不動産事業を担うことになったのですが、終戦を迎え財閥解体の指示をGHQから受けることになるのです。

泉不動産の設立

住友もほかの財閥と同様に解体されることになります。

住友にはすでに不動産事業を担う住友土地工務がありましたが、昭和20年終戦後すぐ日本建設産業株式会社(現 住友商事)に商号変更しています。さらに昭和25年になり設計監理部門を分離し、日建設計工務株式会社を設立します。

この日建設計工務はのちに、日本最大の建築設計事務所「日建設計」になるのです。

また、住友本社には不動産経営・管理をおこなう総務部不動産課があります。財閥解体の直接的な影響は本社の不動産部門が受けることになります。

1949年(昭和24年)に住友が所有していた不動産とも本社から分離し、泉不動産株式会社が設立され8年後の昭和32年に現在の住友不動産株式会社に商号変更するのです。

安田不動産の誕生前

安田財閥系の不動産会社は2つあります。

創始者安田善次郎が設立した「東京建物」については『東京建物の設立と住宅ローンの誕生』で触れました。ここでは安田財閥から誕生した安田不動産について、その生い立ちを見ていきます。

安田財閥の創業時期は1864年の「安田屋」開業です。小さな両替商でした。
2年後には店舗を移転し「安田商店」と改称します。事業は両替専業としのちに「第三国立銀行」を設立するまでの成長を遂げたのでした。

1880年(明治13年)には安田商店を改組し、私立銀行「合本安田銀行」(現 みずほ銀行)となるのです。

不動産事業への関わりは1886年(明治19年)、安田屋開業の地である日本橋区内で、島津家や細川家などの屋敷を買取り、のちに開発事業をおこないます。

現在は日本橋浜町Fタワーや、日本橋安田スカイゲート、そしてトルナーレ日本橋浜町と、高層オフィス街を形成している地です。

1888年(明治21年)には神戸市三宮で広大な土地を購入し、昭和40年代に区画整理をおこない1万2千坪の土地に「三宮センター街」を形成しています。

これら不動産は1912年(明治45年)、資産管理機能と事業統括機能を有する、「合名会社保善社」設立により所有権が移転されます。

こののち横須賀市安浦町にて埋立事業をおこないますが、営利目的の開発事業というよりは、地元民の支援を目的とした事業のようであったのです。

安田不動産の設立

安田財閥の不動産事業は三菱や三井そして住友と異なり、事業性・収益性を積極的に求めたものではなく、地域の発展に寄与できる目的が明確になる場合に限りおこなうという面があります。

その姿勢は現在も同じで、売上高を比較すると他の3社は1兆円超となっていますが、安田不動産は360億円(2019年3月期)ほどであり、堅実経営に徹している姿が伝わってくるようです。

さて安田財閥も他の財閥と同様、太平洋戦争終戦後にGHQより財閥解体の指令を受けます。

三菱は第二会社として陽和不動産と関東不動産を設立、住友は泉不動産を設立したように、安田も第二会社を永楽不動産という社名で設立します。1950年(昭和25年)のことでしたが、安田不動産に改称するのは昭和45年になるのでした。

3財閥とも財閥解散により新会社を設立して資産を移動するにあたり、新会社商号に財閥名称の使用が禁止されていました。そのため上記のように財閥名とは異なる商号を使用し、後に商号変更して現在の社名になっているのです。

ただし三井だけはGHQの財閥商号使用禁止に抵抗し、設立時からの商号を変更することなく今日に至っていることを最後に特筆しておきます。

参考サイト

三菱地所
三井不動産
三井広報委員会「三井の年表」
住友不動産
Wikipedia「日建設計」
安田不動産
【参考書籍】
・『三井不動産四十年史』発行:三井不動産株式会社 編集・制作:財団法人日本経営史研究所 印刷:大日本印刷株式会社・三和印刷株式会社
・『住友財閥』発行所:日本経済新聞社 編者:作道洋太郎 印刷:第一印刷所
・『住友グループの研究』発行所:株式会社洋泉社 著者:菊地浩之 印刷:錦明印刷株式会社
・『安田保善社とその関係事業史』発行・編集:安田不動産株式会社 「安田保善社とその関係事業史」編集委員会 印刷:株式会社細川活版所

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