1950年(昭和25年)に建築基準法が、1952年(昭和27年)には宅地建物取引業法が制定されます。
1950年代は不動産業界にとって大きな飛躍をとげる時代となるのです。まさに現在の日本の不動産業は宅地建物取引業が制定されたときを出発点とするのです。
不動産業が発展するには不動産の根本ともいえる “土地の流通” が、活発でなければなりません。そのためには土地の需要に応える供給源が必要でした。
占領下にGHQがおこなった “農地改革” が伏線となり、かつてなかったような大量の土地供給が、この時代におこなわれたのです。
建築基準法と宅地建物取引業法制定の経緯を確かめながら、不動産業を発展させた当時の状況をみていきます。
建築基準法制定と小宮賢一
『板橋区常盤台団地開発と民間活力による不動産業の成長』で触れたように、建築基準法制定は「常盤台団地」の計画を立てた、小宮賢一が法案作成の中心にいました。
戦後すぐに戦災復興院建築局では戦後復興で活発となる建築行為に対し、建築規制のほか都市計画にも関わる街づくりを目差した、市街地建築物法の抜本改訂を目差していたのです。
昭和21年10月には「建築法要綱試案」として改正案がまとめられます。
昭和23年に建設省が設置されると、「建築法要綱試案」は建設省住宅局で引きつづき検討され、建築基準法要綱案として、昭和24年8月にまとまります。
そのご10月には住宅局案がまとめられ、12月には建設省案として最終法案ができ、昭和25年4月にGHQの修正も加えた政府提出法案がまとまり5月24日成立します。
基準法成立まで小宮賢一は復興院そして建設省と、一貫して法案作成に係っていたのでした。
市街地建築物法では、特殊建築物は認可制であり住宅などの一般建築物は届出制であったものが、建築基準法が制定され現在の建築確認制度がスタートしたのです。
認可制とするか確認制とするかについて、このとき同時成立を目差して「建築士法」との絡みもあり、いろいろ議論がなされたようです。
しかし結果的には建築確認制度が実施され、特殊建築物の認可制がなくなりました。このことが今日見るような、集合住宅を主とした特殊建築物においての、建築基準法違反事例多発につながったのかもしれません。
建築基準法の国会提出にさいして、建設省住宅局は建築基準法・建築士法・住宅金融公庫法の3法成立を目差していましたが、国会状況を鑑み建築士法は民間4団体による議員立法として提出したのです。
このとき議員立法をおこなった衆議院建設委員会の理事が、元総理大臣田中角栄であったことは有名な話です。
宅地建物取引業法の制定
宅建業法が制定された経緯は、戦後の混乱のなか住宅不足が深刻な状態であり、土地や建物のあっせんや取引が盛んになった背景があります。
この当時は不動産業者を規制する法律がなく、東京警視庁紹介営業規則など府県で独自に規制をしていたのですが、昭和22年に旧憲法が廃止されこれらの条例も効力を失いました。
そのため市中では不動産の売買や仲介は無法状態となり、悪徳業者が多数おりトラブルも絶えることはなかったといいます。
昭和26年春ころ、不動産業界の惨状をみかねた業者の団体が「不動産取引業法立法促進連盟」を結成し、政府や国会議員に働きかけた結果、昭和27年6月に成立し8月1日に施行されたのです。
なお宅建業法も田中角栄が提案者の一人となり成立させた法律でした。
出典:沖縄地域学リポジトリ「田中角栄の立法行動に関する一考察-道路三法と自動車重量税法を中心として-」
宅建業法が目的としたことは次の4つでした。
2. 業務にルールを設定し公正な取引を実現する
3. 業界が健全に発達することにより取引当事者の利益を図る
4. 円滑な不動産流通を実現する
不動産業界の発展
宅地建物取引業の制定に加えて「農地法」の制定が、戦後の不動産業発展に拍車をかけます。
農地改革につづき農地法により細分化された農地は、宅地や工業用地として転用する法的根拠が生まれ、1956年~1975年の期間に約56万haの農地が転用されました。
この規模は同時期の埋立面積累計の5.3万haの10倍にもおよび、土地供給源として農地の存在は非常に大きなものとなったのです。
下図は昭和28年から昭和55年までの「農地転用許可・届出実績」のグラフです。
出典:『日本不動産業史』
(面積は見やすくするため、実際の数字を10倍にして表示しています。)
昭和30年代前半までは工業用地が主体で、それ以降は住宅用地が主体になっていきます。
「農地法」は農地の売買・転用に、たいへん厳しい規制をかけているのは事実です。許認可権限は都道府県知事または農林大臣であったわけですが、実際の運用においては市町村単位の農業委員会が、主体的役割を担っていました。
地元の農家が選出した委員に対し、転用希望を提出するのはこれまた地元の農家です。このような構造から、許可申請が却下されることはほとんどありません。また無許可転用をおこなったとしても、始末書で処理されることが多かったといいます。
工場用地の増加は工場を含め事業所が増加するのは当然です。すると求人が増え事業所周辺では住宅不足がおこります。事業所に近い地域では農地転用がおこなわれ、貸家やアパートが増加する……このようなサイクルが生まれました。
このような動きは昭和25年の国土総合開発法にもとづき、千葉県そして千葉市で盛んになります。京浜工業地帯への集中を避け、京葉工業地帯を形成しようとする国家政策でした。
工業用地は埋立もおこなわれましたが、前述のように圧倒的に農地転用が多かったのです。
貸家やアパートの増加により、仲介業者が大量に表れるようになります。宅建業法はこのようにして生まれた、零細仲介業者の指導監督を目的としたものでした。
デベロッパーの誕生
貸家業を兼業する農家や、その物件を仲介するたくさんの不動産会社の対極にあるのが、大手不動産会社です。
工場用地や住宅地の開発販売をおこなった不動産会社の半分近くが、大手不動産会社であり “デベロッパー” と呼ぶようになっていました。
これまで不動産会社は「不動産屋」とか「千三つ屋」と呼ばれていましたが、1962年(昭和37年)日本生産性本部視察団がアメリカの都市開発を視察したさいに、当地では “デベロッパー” との呼称がされていたものを取り入れたと、『日本不動産業史』(p.208)に記述があり、これは本当のことだと思われます。
ここではデベロッパーと位置づけされた、大手不動産会社の動向をみていきます。
1. 三井不動産株式会社
この時期、不動産業界の売上ナンバー1が三井不動産でした。事業の柱は3つ。
・工業用地開発事業
・住宅用地開発事業
賃貸ビルは、東京都心はもちろんのこと、大阪・神戸・横浜・札幌と全国主要都市での事業展開をおこなっています。工業用地は千葉県・三重県・大阪府での大規模な開発事業を、そして住宅地は「湘南ニュータウン片瀬山」や和泉市「泉丘陵住宅地」など、40万㎡~60万㎡という大規模開発をおこなっていたのです。
2. 三菱地所株式会社
売上は三井不動産に1位を奪われますが、経常利益ナンバー1が三菱地所でした。
三菱地所の大きな柱はなんといっても、丸の内を主とした賃貸事業です。さらに住宅地開発やマンション・工業用地開発にも進出しています。
3. 東急不動産株式会社
三井、三菱についで売上第3位だったのが東急不動産です。
いうまでもなく『田園調布の開発と分譲がはじまる』で触れた、田園都市開発株式会社を起源とする東急電鉄が設立した不動産会社です。
住宅地開発に加え中高層集合住宅やアパート建設と事業の多角化を図り、さらに建売住宅ブランド「東急ホーム」は提携ローン商品を開発し、持ち家需要の掘り起こしにも成功しました。
以上のようにデベロッパーは産業発達に欠かせない工業用地や、各産業に従事する労働力確保に必要な住宅供給を担う存在です。開発に膨大な資金が必要であり、金融機関からの融資が必須であったのです。
下図は昭和30~35年、35年~40年、40年~45年、45年~50年の4期に区分し、不動産業・製造業・全産業の金融機関からの借入額推移をグラフにしたものです。
出典:『日本不動産業史』
不動産業は製造業に比較し “不要不急の産業” と見なされる傾向があるといいます。そのため「娯楽」や「サービス」産業と同列扱いされ、金融機関の融資姿勢に違いがあるといわれます。このことは現在でも同じような傾向があると感じますが、不動産業の借入先として「その他」と区分されるジャンルがあります。
出典:『日本不動産業史』
その他借入金推移では昭和45年以降に、製造業を抜いている状況を確認することができます。
このころは、不動産業が直接融資を受けることがむずかしい場合、金融機関→製造業→不動産業と資金が流れる「迂回融資」がおこなわれていたと見られます。
この構図は現代においても、金融機関→ノンバンク→不動産業といった流れで、不動産融資がおこなわれていることと同様であると指摘できるでしょう。
参考サイト
・J-Stage「戦後「市街地建築物法改正」案の特徴と建築法要綱試案」
・J-Stage「建築基準法制定における建築手続きの成立過程」
・一般財団法人 不動産適正取引推進機構「昭和戦後復興期の不動産政策」
【参考書籍】
・『日本不動産業史』 発行所:財団法人名古屋大学出版会 編者:橘川武郎・粕谷誠 発行者:金井雄一