国家プロジェクト「ハウス55」とは?

建設省が通産省と共催しておこなった「パイロットハウス技術考案競技」から6年後(昭和51年)、再び両省による国家的プロジェクトがおこなわれます。

プロジェクト名は「ハウス55計画」、昭和55年を目標に500万円代の住宅を実現しようとする計画で、90社の企業が20のグループを形成し応募しました。

ここでは「ハウス55計画」の概要と、その後の住宅産業を俯瞰してみます。

ハウス55計画の概要

ハウス55は単独企業による技術コンペではなく、建設業者・建材メーカー・ハウスメーカーなどがグループを作り、それぞれの総合力で “500万円代で建てられる住宅” を開発するものでした。

昭和50年ころの住宅建設費は坪あたり22万円ほどであったと考えられ、30坪の住宅の場合600万円を超えていたのでした。25坪の住宅でも550万円、すでにオイルショック後の不景気を乗り越え、再び成長軌道に乗っていたころです。5年後の500万円代は簡単なものではなかったのでした。

20グループの応募から審査の結果3グループが入選し、国家予算のもと実際の研究開発が行われます。入選したのは以下のグループでした。

・ナショナルハウス55-松下電工・竹中工務店・新日本製鐵
・ミサワホームハウス55-ミサワホーム・昭和電工・日新製鋼・日立製作所
・小堀ハウス55-小堀住研・清水建設

そして昭和55年を迎え、実際に商品化にこぎつけたのが「小堀住研」のみだったのです。

小堀住研はのちに「エス・バイ・エル」と改称し、現在のヤマダエスバイエルになっています。

ハウス55の失敗そしてその後

ハウス55計画は結果的には失敗に終わります。唯一、開発成果を実際の商品とすることができたのは、前述の小堀住研だけでした。

失敗の原因として考えられるのが、昭和53年から昭和55年にかけて、オイルショック後の不景気から一転好景気を迎え物価の高騰が起きていたこと、加えて異種企業グループによる開発のむずかしさがあったのかもしれません。

こののち建設省が工業化住宅を対象とした、目立った支援策は見られなくなります。代わりに登場するのが木造住宅への支援施策です。

・住宅性能保証制度
・木造建築士制度
・木造住宅振興モデル事業~地域木造住宅生産供給促進事業
・住宅金融公庫の好企画住宅割増融資制度

たてつづけに木造住宅(ツーバイフォーも含め)を主として政策が実行されるのでした。

このように木造住宅を取り巻く社会的なトレンドが生まれるなか、鎌田紀彦氏(『工業化住宅性能認定制度によりプレハブが大手ハウスメーカーに』で触れた)が立ち上げた「新住協
が、東北・北海道を中心に活発な活動を開始し、現在の在来木造工法の基本的しくみを構築したのでした。

鎌田氏が提唱した外壁に通気層を設ける工法(通気層工法)は、住宅の性能と耐久性を高める効果があり、寒冷地だけでなく全国に広がっていったのでした。

在来木造軸組工法の発展

寒冷地では在来工法による木造住宅は、一時期「住宅ローンの返済が終わるころには建替えが必要」といわれていました。

住宅金融公庫の返済年数は35年が常識になっていますが、当初はもっと短く木造は最長で25年という時代のころの話です。

つまり25年もすると土台が腐ってきたりして、きわめて耐久性の劣るものでした。原因のひとつが「断熱性を高めた」ことといわれています。

住宅金融公庫の設計基準に断熱工事の仕様が明文化され、外壁や床そして小屋裏に断熱材が施工されるようになりました。断熱材の充填により気密性が高まり、外壁内での内部結露が生じるようになります。

公庫の仕様では断熱材の室内側に、防湿のためのフィルム施工が義務づけされますが、室内からの湿気が壁体内に流入することを完全に防ぐことはできません。そのため壁体内の結露により木造の骨組みが腐る現象が起きるのです。

この現象を防ぐために考案されたのが「通気層工法」でした。

通気層工法の考え方は、外壁の乾式工法において合理的なもので、やがて全国へと普及していったのでした。

木造住宅を画期的に変革したものがもうひとつあります。「プレカット」という、木造軸組部材の加工を大工の腕に頼らず機械によりおこなう方法でした。

昭和60年ころからはじまったこの方法は、在来木造軸組の工場加工率を高め、品質の均一化と施工精度を高めることに貢献します。さらに高度な大工技能を機械に置き換えることにより、予想される “職人不足” にも対応する体制づくりが可能になりました。

さらに軸組部材の接合に金物を使用することにより、構造上の耐力を確保しより安全な住宅を建てる技術が定着するようになったのです。

小堀住研がハウス55で実施した「木造耐力壁のパネル化」も同様に普及するようになり、現在「在来木造軸組工法」により住宅を供給する多くの工務店では、通気層・プレカット・構造金物・パネル化が標準ともいえる技術になっています。

日本列島改造と超高層ビル

昭和50年代の住宅産業を俯瞰してきましたが、このころの経済状況についても少しだけ触れなければなりません。

1972年(昭和47年)内閣総理大臣に就任するすこし前、田中角栄は「日本列島改造論」を出版します。 この1冊の本が“日本列島改造ブーム” のキッカケとなり、全国で開発計画がもちあがったともいわれます。開発地域周辺では土地の投機買いがおき、地価上昇と不動産ブームがおきました。

日本の経済活力を象徴するように、超高層ビルも建てられるようになります。日本初の超高層ビルは霞ヶ関ビルディングですが、このころ建ったビルは以下のとおりです。

ハウス55,概要

また、日本最初のタワーマンション「与野ハウス」が1976年(昭和51年)に竣工しています。

昭和50年代は高度経済成長の最終ステージともいえる時期であり、昭和60年代の高度成長から成熟期への過渡期でもあり、そのごバブル経済に突入していきます。

ハウス55,概要

引用:財務省 日本の財政を考える「公債残高の累増」

バブル崩壊を迎えると公債発行残高が急激に上昇し、失われた20年とも30年ともいわれる、新規局面を迎えるようになるのです。

参考サイト

・財務省「昭和50年代後半の経済」
国税庁「建物の標準的な建築価額表」
・九州大学「戦後の住宅生産と行政施策の変遷」
産業技術史資料情報センター「日本の工業化住宅 ( プレハブ住宅 ) の産業と技術の変遷」
日本の佇まい「プレハブ住宅を巡る国の関与」
一般社団法人 新住協
一般社団法人全国木造住宅機械プレカット協会

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