明治期に見る東京市の発展

明治時代は維新により、新しい国家建設という大きなテーマを持ってスタートしました。しかしながら貧弱な財政基盤であった新政府にできることは限られています。

明治期の後半には、1984年(明治27年)の日清戦争と1904年(明治37年)の日露戦争があり、内政上の課題に加え外交上の課題に直面した時代でもありました。

そのような時代背景のなか、東京の発展は明治20年代に大きな動きをみせます。ここでは大都市「東京」の誕生と成長初期の姿をふり返ってみましょう。

東京府から東京市へ

明治維新により江戸は東京府と改称されます。 “府” とは「幕府」とか「政府」など “政庁” に由来するといわれる呼称です。

明治11年には市制の施行により、東京府の府庁所在地として「東京市」が誕生し、昭和18年の東京都への変更まで日本の首都は東京市でした。

人口は明治11年に107万人でしたが、1911年(明治44年)には273万人と倍以上に成長し、世界でも有数の大都市になっていました。ちなみにこの頃の世界一はロンドンで約700万人です。

人口増加により都市ではさまざまな問題が生じるようになります。伝染病の流行や大火災の発生などは江戸時代からあったものですが、より大きな問題となってくるのです。

また交通機関として馬車が使用されるようなったのは明治4年からですが、明治15年には道路に軌道を敷設した馬車鉄道が運行されるようになり、道路整備は東京市の最重要課題となりました。

日本初の都市計画法制

1888年(明治21年)に公布された「東京市区改正条例」は、東京市内で表面化した問題解決のため計画的な東京改造を企画したものです。翌年には具体的な計画となる「東京市区設計」を作成し、事業に着手しました。

計画に組入れられた都市計画施設は以下のようなものです。

・道路
・河川
・橋梁
・鉄道
・公園
・市場
・火葬場
・墓地

しかし現実には膨大な事業費を賄うことができず、道路整備とともに行うはずだった下水道や、市場および築港計画は着手できずに終わるのです。

鉄道網の整備

1872年(明治5年)、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開通し、その後、上野~熊谷、品川~新宿、新宿~赤羽、新宿~立川と鉄道網は整備されます。

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引用:東京都都市整備局「鉄道技術の導入」

1889年(明治22年)には品川~神戸間の東海道本線が開通し、近代日本を形成する重要インフラが整っていきました。

明治22年当時の時刻表によると、新橋から神戸までの直通便は1日1本しかなく、新橋を16:45に出発し神戸には翌日12:50に到着する便でした。

他には新橋~京都、新橋~名古屋、新橋~静岡、静岡~神戸が各1本と、名古屋~神戸が2本とこのようなダイヤだったのです。

東京の幹線道路

「東京市区設計」の重要ポイントは道路整備計画でした。

下図は1885年(明治18年)に計画された道路網と1982年(昭和57年)時点での東京都都市計画道路網図です。

明治18年は「東京市区設計」前に計画されていたものですが、昭和57年の道路網図と比べてみると、基本的な構成にあまり変化はありません。

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引用:J-Stage「東京の市区改正条例(明治時代)を中心とした幹線道路形成の史的研究」

関東大震災や太平洋戦争による壊滅的な破壊によっても、道路網は消失することなく今日まで継続されていることがわかります。

道路整備が最重要であったのは、コレラの流行やたび重なる火災による家屋の焼失を防ぐため、上水道・下水道の整備と道路拡幅が必要であったからでした。

さらに諸外国と比較して貧弱な道路環境の改善を急ぐ必要もあったのです。いうまでもなく江戸は城下町であり軍事的な要素もありました。道路は狭く複雑であり敵の攻撃を防ぐ役割もあったわけです。

狭く迷路のように入り組んだ江戸の道路は、首都としての機能や風格に乏しく、不平等条約の改正を目差す政府にとって道路整備は緊急の課題でした。

道路が重要テーマであったことの証明は、大正7年までの30年間で費やした総事業費5,058万円のうち、51%を道路建設に投入したことでも明らかだといえるでしょう。

整備が遅れた下水道

「東京市区設計」にて計画された上・下水道ですが、事業資金の問題で上水道が優先され下水道整備は大幅に遅れてしまいます。

下水道整備は1882年(明治15年)に発生した、コレラの大流行により必要性が表面化しました。東京府全体で約5,000人が死亡し、うち4,500人以上が東京市15区内での流行でした。非常に狭い範囲での大流行であったといえるでしょう。

コレラ大流行をうけ、東京府は明治17年に神田駅周辺の「神田下水」を整備します。しかし東京市全体の下水道は明治末まで待つことになります。

東京市全体の下水道整備は、明治40年に東京帝国大学中島鋭治教授による「東京市下水設計調査報告書」にもとづき、1911年(明治44年)に第1期工事が認可されスタートします。

そのご長い年月をかけ下水道整備はおこなわれ、東京23区の下水道普及率が100%に達するのはなんと1995年(平成7年)のことです。

東京湾の埋立

現在の東京を語るうえで東京湾の埋立事業を外すことはできません。

「東京市区設計」では築港計画があったものの、予算の問題や横浜港のある神奈川県側の反対により、実行されることはありませんでした。1906年(明治39年)に至り、隅田川口改良工事が始まり本格的な東京湾での築港計画がスタートするのです。

下図は「東京都公文書館だより」第14号に掲載された「「日本東京海湾隅田川口附近」と題された海図です。

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引用:東京都公文書館だより「雑用海図「東京海湾隅田川口附近」と東京築港」

海図の中央部に南北につながる弓形の “溝” のようなものが見えます。これは東京湾から隅田川につながる「海底運河」の計画図です。

水深の浅い東京湾内の底に運河を建設し、掘り出した土砂を運河の左側に埋め立てることにより、芝浦埋立地の造成工事も同時に進みました。

明治中期までの建築物

1888年(明治21年)の「東京市区改正条例」により東京は世界的な大都市へと変貌を遂げるのですが、その姿を見るようになるのは明治末期から大正時代になります。

道路や上下水道などインフラの整備を進める一方、官庁建築物にはまったなしで急ぐ必要のあるものもありました。明治中期までに建てられた建築物の概要をみておきましょう。

1. 東京築地ホテル
建設時期:1869年(旧歴明治元年)
明治維新の前年すでに開国を決めていた江戸幕府は、江戸を訪れる外国人のための宿泊施設の準備が必要でした。
アメリカ人の建築技術者リチャード・ブリジェンスに設計を依頼し、建設工事は現在の清水建設の前身である清水組がおこない、完成後はホテルの経営もおこないました。
詳細⇒築地場外市場 - 公式ホームページ「築地史料館:幻の築地ホテル館」

2. 鹿鳴館
建設時期:1883年(明治16年)
海外から招く要人たちの迎賓館として建設され、社交界の舞台として4年間使用され、その後は華族会館として利用されました。
設計はイギリス人建築家のジョサイア・コンドルです。
詳細⇒歴人マガジン「【 4年で終了 】明治維新の象徴となるはずだった鹿鳴館の末路」

3. 三菱一号館
建設時期:1894年(明治27年)
三菱合資会社が丸の内に建設したはじめての洋風建築。1968年に解体されますが2009年に復元され、2010年より「三菱一号館美術館」として三菱地所(株)が運営しています。
設計は三菱地所設計です。
詳細⇒三菱一号館美術館「美術館について」

4. 司法省(法務省本館)
建設時期:1895年(明治28年)
司法省の建物として建設され1945年戦災により一部消失し、その後修復し現在は法務史料展示室としても利用されており、外観は重要文化財に指定されています。
ドイツ人建築家のヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが設計をおこない、司法省建築主任であった河合浩蔵が実施設計に携わりました。
詳細⇒法務省「法務省旧本館(赤れんが棟)フォトギャラリー」

5. 日本銀行本店
建設時期:1896年(明治29年)
明治時代の洋風建築として代表的なもの。現在も本店本館として利用されています。
ベルギー中央銀行の外観を模範に設計され、重要文化財に指定されています。
設計は明治を代表する建築家であった辰野金吾工科大学教授でした。
詳細⇒日本銀行「日本銀行本店の建物について教えてください。」

6. 大審院
建設時期:1896年(明治29年)
司法省の建物と対をなすのが大審院の建物です。設計はエンデベックマン事務所のアドルフ・ハルトゥンクがおこないました。実施設計は内務省の技術者妻木頼黄です。
詳細⇒鹿島建設株式会社「第30回 ふたつの最高裁判所庁舎」

現代においても存在する明治時代の建築物ですが、建築物とともに明治20年代には近代不動産業の萌芽をみることになります。

参考サイト

一般財団法人 不動産適正取引推進機構「明治期の不動産政策」
東京都都市整備局「東京市区改正条例」
J-Stage「東京の市区改正条例(明治時代)を中心とした幹線道路形成の史的研究」
北山敏和の鉄道いまむかし「川上幸義の東海道線創業史」
・東京都下水道局「下水道の歴史」

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