住宅営団から住宅公団へ~住文化を検証

住宅不足の解消が喫緊の課題となった終戦直後、政府はさまざまな住宅政策を実施してきました。その間にのちの住宅産業が発展する基礎や、住宅の大量供給を実現する技術の誕生といった動きがありました。

それは公的機関の先行的研究を民間活力に取り入れ、あたかも官民が協同して進めた如く、世界でも類をみないものでした。

ここでは、戦時下に設立した住宅営団から生まれた住宅量産技術と、戦後になり新たに設立された住宅公団が切り拓いた「公団住宅」の生い立ちを見ていきます。

住宅営団の設立とプレファブ住宅

中国大陸での戦争が激しくなった1941年(昭和16年)、国内では防空上の理由からも、都市計画や鉄筋コンクリート建築の増加が必要となり「住宅営団」を設立します。『同潤会アパートが近代日本建築に与えた影響』で触れた、同潤会を吸収するかたちで住宅営団は生まれました。

住宅営団は同潤会の事業を継承したわけですが、昭和16年は12月に太平洋戦争に突入しようとするころでした。物資が少なく終戦までの成果は少なかったのですが、現在の工業化住宅の前身ともいえる「プレファブ住宅」の開発をおこない、終戦までに200戸の住宅を建設しています。

プレファブ住宅はのちに「大和ハウス」や「ミサワホーム」そして「積水ハウス」といった、ハウスメーカーの誕生につながります。

なお住宅営団のプレファブ住宅は、元建築家協会会長や(財)住宅部品開発センター初代理事長を務めた、市浦健の研究から生まれたものでした。
出典:市浦ハウジング&プランニング「市浦健の事務所小史」

住宅営団は戦後になるとGHQの命令により解散するのですが、同潤会以来の歴史と技術的資産は、昭和30年に設立する「日本住宅公団」に受け継がれていくのです。

戸建住宅の量産技術

現在の日本では一般的な工法と思われている工業化戸建住宅は、実は世界でもみなれない成功例といわれます。

・木質系パネル工法-ミサワホーム
・鉄骨系プレファブ工法-大和ハウス工業、積水ハウス、ナショナル住宅(現 パナホーム)、東芝住宅工業、トヨタホーム、クボタハウス(現 サンヨーホームズ)
・鉄骨系ユニット工法-セキスイハイム、ヤクルトホーム
・コンクリート系パネル工法:大成パルコン、大栄プレタメゾン

これらは昭和30年代~40年代に日本の住宅産業、とりわけ工業化住宅を牽引したハウスメーカーです。現在は撤退した会社もありますが、これらのハウスメーカーがプレファブ技術の研究開発に成功した陰には、住宅営団が残した実績があったからともいえるのです。

戸建住宅における工業化・量産化技術の発達は、昭和30年代に花開きます。一方、昭和30年に設立する日本住宅公団が進めた鉄筋コンクリート造の「公団住宅」に採用されたPC工法(壁式プレキャストコンクリート工法)は、中層集合住宅の大量供給を可能にし、住宅供給量の大幅な向上を実現しました。

日本住宅公団の設立とその業績

日本住宅公団は建設省の管轄として1955年(昭和30年)に設立します。住宅営団は内務省管轄でしたので、組織的な系統は別であり住宅営団解散から10年経過していることから、直接的なつながりはありませんが影響は受けていました。

住宅公団がはじめてPC工法による建築をおこなったのは昭和33年のこと。多摩平団地のテラスハウス(2階建)でした。

このときは “ティルトアップ工法” といい、現場でPC(プレキャストコンクリート)版を作成し、その場でクレーンによりPC版を吊り上げ組立てる方式をおこなっています。

そのごPC工法は4階建てを可能にし、昭和40年には千葉市にPC版製作工場を建設し量産体制を構築します。昭和41年には5階建て集合住宅も可能になりました。

同じく昭和41年には民間初のPC工場が4ヶ所建設され、PC工法がゼネコンにも普及していき、昭和49年には住宅公団の認定工場が68工場にまで増加したのでした。

そのごPC工法を高層住宅にも適用できるH-PC工法など、合理化・量産化する工法が開発され、住宅公団は現在の都市再生機構へとつづくのです。

日本住宅公団が設立から昭和48年までに建設した実績が以下です。

住宅営団,住宅公団
出典:『日本住宅公団20年史』

2DKスタイルの定着

同潤会~住宅営団~住宅公団の系譜は日本の住宅づくりをリードし、住宅を計画するうえでの理念が住宅公団に引き継がれます。

・食寝分離
・就寝分離

つまり食事のスペースと就寝するスペースを分離することと、親と子など家族の就寝スペースを分離することを住宅公団は目差しました。

住宅公団が集合住宅を設計するうえで、標準となったのが “2DK” 形式の間取りでした。

ダイニングキッチン(DK)と寝室を設けることにより「食寝分離」を実現します。そしてDKの横に和室を設置し昼はリビングに夜は寝室にすることにより、もうひとつ分離した和室により、家族の寝室を分離する「就寝分離」を可能にしたのです。

この形式により、標準的な家族構成である夫婦+子に対応した間取を標準とするようになりました。

住宅公団の間取りは住宅営団において西山夘三が提唱した「型計画」を踏襲したもので、これにより “〇DK” や “〇LDK” という考え方が一般的となり、「洋式便器」と共に日本中に広まるようになるのです。

公営住宅法の成立と歴史的意義

住宅公団は「住宅政策3本柱」のひとつとされるのですが、あとの2つが以下の政策でした。

・住宅金融公庫の設立
・公営住宅法の制定

ここでは公営住宅法について見ていきます。

1951年(昭和26年)公営住宅法が制定されます。地方公共団体がおこなう低所得者を対象とした賃貸住宅事業に係る法律です。

終戦直後は内閣の決定によっておこなうことができた、国庫補助方式による公営住宅が建てられていました。応急的な住宅政策により住宅需給関係のひっ迫感がやや収まり、住宅行政に法的根拠が必要になったため制定したものでした。

建てられた公営住宅は浴室がないとか狭いとか、必ずしも十分な居住環境を満たすものではなく、入居希望者が計画を下回るなどやがて徐々に建設実績は減少していきます。

建設戸数が減少する理由にはもうひとつあり、地方公共団体の財政的な負担の大きさと、公営住宅法制定の前年に設立された「住宅金融公庫」の存在がありました。

住宅金融公庫からの融資による賃貸住宅事業が可能であったため、地方公共団体にとっては公営住宅よりも、融資付き住宅事業はメリットが多かったわけです。さらに公庫融資付き分譲住宅も可能になり、公営住宅の有意性が薄れていったものと考えられるのです。

やがて住宅公団の設立により、公営住宅は “福祉住宅的” な性格を強くするようになっていくのでした。

なお公営住宅においても、公団住宅でみられた“〇DK” や “〇LDK” が定着したことは、いうまでもありません。

参考サイト

産業技術史資料情報センター「日本の工業化住宅 ( プレハブ住宅 ) の産業と技術の変遷 」
戦後日本のイノベーション100選「安定成長期 プレハブ住宅」
・九州大学「戦後の住宅生産と行政施策の変遷」
市浦ハウジング&プランニング「市浦健の事務所小史」
・UR都市機構「公団住宅の構造・工法」
J-Stage「市営住宅の応募状況からみた公営住宅需要の動向とその背景要因の分析」
岡山大学学術成果リポジトリ「自治体住宅政策の史的展開」
【参考書籍】
・『日本不動産業史』 発行所:財団法人名古屋大学出版会 編者:橘川武郎・粕谷誠 発行者:金井雄一
・『日本住宅公団20年史』 発行:日本住宅公団 編集:日本住宅公団20年史刊行委員会 印刷:大日本印刷株式会社

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