バブル経済はなぜ生まれたのか?

2017年大ブームとなった登美丘高校ダンス部の「バブリーダンス」、流れる曲は荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」、1985年11月21日発売でした。

まさにバブル経済を印象づける代表曲といえるでしょう。

世にいうバブル経済は昭和から平成へと、時代の変わり目に生まれた “虚構の世界” でした。

しかし理由もなく生まれたものではなく、 “原因と結果” の法則によるものだったのでしょう。

この記事を含めて3回にわたり「バブル経済」の5年間に焦点をあててみます。

初回は、バブル経済はなぜ生まれたのか?

次は、バブル期の不動産業界について……

そして最後は、バブル崩壊により消滅した企業について……

まず、バブルがはじまる8年前に遡ります。

バブル直前の経済状況

1978年(昭和53年)第1次オイルショックによる不景気を脱し、日本経済は好調でした。

対ドル円相場はこの当時の最高値(1ドル=152円)をつけていました。

その後、第2次オイルショックがおこり、日本経済にも影響を及ぼしますが、第1次オイルショックほどではなく輸出の大幅な伸びなどもみられました。

アメリカでは1981年(昭和56年)1月にロナルド・レーガンが大統領に就任し、軍事費の増大による経済発展と投資促進政策、そしてドル高を誘導してインフレ率を下げる、いわゆる “レーガノミクス” を政策として展開します。

インフレ抑制は前政権からもおこなわれており、このとき米ドル金利は20%にも達していました。

高金利は “ドル買い” を招きドル高が進みます。

すると輸出は減少し、輸入が増加する。

結果として、インフレ抑制に効果はありますが、民間投資の減少と経常収支赤字が増える副作用もあったのです。

インフレの鎮静化により金融緩和がおこなわれると、米ドル金利は下がりドル安となります。

昭和57年半ばには1ドル=269.4円とドル高だったものが昭和59年末には約225円とドル安に振れ、そこからまたドル高に反発します。

このようなドルの乱高下は昭和46年ころに発生したニクソンショックを予感させ、日・米・英・独・仏のG5による、「ドル安協調路線」が合意されました。

これが1985年(昭和60年)9月22日の「プラザ合意」でした。

そしてこの合意が日本において「バブル景気」をおこすキッカケとなったのです。

バブルが生まれる条件の成立

プラザ合意は先進5か国が「ドル安協調路線」をとることでしたが、その影響は日本に大きくおよぶのです。具体的には「急激な円高」がひき起こされました。

1年ほどで250円→150円と1.7倍に上昇しました。さらにその後、昭和62年中に122円まで高くなります。

急激な円高に対抗する常套手段は中央銀行による金利切下げですが、このとき日本銀行は為替レートが250円→175円にあがるまで、公定歩合(現在は基準割引率および基準貸付利率といいます)を据置したのでした。

日銀の政策が『日本はさらなる円高を容認する』という感触を市場に与え、次のように円高がどんどん進んだのです。

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引用:駒澤大学「円相場(対ドル)の推移 1973-2002」

このころ公定歩合の推移は以下のような状態でした。

1. 1983年(昭和58年)に5.5%から5.0%となり1986年(昭和61年)1月30日までつづく
2. 1986年(昭和61年)1月30日には4.5%に下がり3月10日に4.0%、4月21日に3.5%に下がる
3. 3.5%の公定歩合は1986年(昭和61年)11月1日には3.0%、翌年2月23日に2.5%となる

日銀が昭和61年1月末に至りようやく公定歩合の切下げをおこないます。

そこには各方面からの切下げ要求や大蔵省からの圧力もあったといいます。

結果的に、1987年(昭和62年)2月23日に2.5%まで公定歩合は下がりましたが、まだ数ヶ月円は買われ続けるのでした。

ここで重要なことは昭和61年1月初め時点で5.0%であった公定歩合は、昭和62年2月末に2.5%と14ヶ月間で半分に下がったことです。

公定歩合が下がるとプライムレートも下がります。

金融緩和により金融機関は積極的な融資姿勢に変化していくわけです。

バブル景気の原因

バブル景気の原因としてあげられる要因は、金融緩和以外にも次のようなことがいわれています。

・アメリカとの間で「金融自由化政策」を採ることが合意された
・輸出産業の環境悪化により内需拡大政策をとった
・所得税の最高税率が引き下げられ富裕層の実質所得が増加
・国土庁の「首都改造計画」の発表や容積率の緩和などにより首都圏の地価上昇がはじまった
原油価格の急落により景気への刺激要因となった
・NTTが上場し「財テクブーム」を作りだした
「リゾート法」の制定により地価上昇が地方にもおよび、ゴルフ会員権の高騰もはじまった

このような経済をとりまく環境下において、輸出規制がかかった日本の産業界が投資先として選択したのが不動産だったのです。

企業や資産家・事業家には金融緩和により資金が集まってきます。

株価の上昇により上場企業は、金融機関よりも有利な資金調達が可能になります。

海外資産への投資や買収もおこなわれ、ジャパンバッシングが激しくなる原因ともなりました。

バブル経済へ突入

バブル景気とは1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までとされています。

ではバブル発生とみられる昭和61年末から昭和62年中旬ころまでの期間、日本経済はどのように分析されていたのか『昭和62年8月18日付 昭和62年年次経済報告』を見てみましょう。

まず、このころを次のように認識し表現しています。

“特に58年以降のドル高・円安によって,外需主導型という方向が非常に強まり,経常収支の黒字が累増しました。それが今回の円高と内需拡大努力により,内需主導型の方向に大きく修正されてまいりました。”

つづいて62年5月に策定した6兆円を上回る財政措置と対外経済対策の狙いを2つあげています。

“1.内需の拡大を一層確実なものとし,短期的には62年度政府見通しの3.5%成長を達成するとともに,中長期的には我が国の経済発展を内需主導型への構造転換により着実に実現していくための積極的な第一歩とする
2.対外不均衡を是正し,国際通貨の安定を図り,かつ保護主義的な動きを防止していく”

引用:経済企画庁「昭和62年年次経済報告」

さらに同報告では『東京への人口・情報の集中』に触れ、金融緩和により生まれた豊富な資金が都心部の不動産市場に向けられ、投機的取引が活発化し地価上昇が起きていると指摘しています。
(第II部 構造転換への適応-効率的で公正な社会をめざして-第5章 東京集中と地域経済 第1節 東京集中の実態)より

不動産業の総売上高は昭和61年に23兆円であったのが、平成2年に42兆円になります。

たった4年間で1.82倍に上昇するわけですが、ほとんどは地価の上昇によるものです。

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引用:国土交通省「バブル期の地価高騰及び下落過程についての考察」

商業地の地価上昇は全国の主要都市や観光地でもみられ、「リゾート法」の影響は人口減少の起きていた過疎地にまでおよぶのでした。

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引用:不動産ジャパン「土地に関する不動産価格の推移-(1)地価公示に基づく価格」

株価も3年間で3倍に上昇し、 “日本中がお祭り騒ぎ” を呈するようになったのです。

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出典:Investing.com

土地もあがる株もあがると異常ともいえる好景気の記憶が、バブル経済を5年間維持させたエネルギーだったのかもしれません。

参考サイト

一般財団法人土地総合研究所「データでみる5年間の不動産経済」
内閣府「年次経済財政報告(経済財政白書)」
日本銀行「基準割引率および基準貸付利率(従来「公定歩合」として掲載されていたもの)の推移公表データ一覧」
日本銀行「長・短期プライムレート(主要行)の推移 1966年~1988年」
【参考書籍】
・『日本不動産業史』 発行所:財団法人名古屋大学出版会 編者:橘川武郎・粕谷誠 発行者:金井雄一

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