大正期後半は明治維新からすでに半世紀が経過し、大正デモクラシーがおこる時代です。
都市では人口増加がおき住宅不足が深刻になっていましたが、民間活力が大きくなってきており、鉄道会社による宅地開発が活発になってきました。
郊外へ鉄道が延び、窮屈な都心から環境豊かな郊外での居住も可能になってきたころ、東京・横浜の都心部を襲った巨大地震。
30万棟ともいわれる失われた住宅の対策として、震災義捐金を元に設立した「同潤会」が果たした役割と、その短い活動期間におこなった事業と歴史的な意味を考察します。
同潤会の誕生
関東大震災の翌年、1924年(大正13年)5月29日同潤会が設立されます。内務省が所管する財団法人でした。理事・評議員には当時日本建築界のリーダーともいえる、佐野利器や内田祥三が就任しています。
目的として次のようなことが掲げられていました。
- バラック居住者ために提供する住宅の経営
- 震災による不具者や疾病者を収容し授産教育をおこなう
- その他各種救護施設の経営
同潤会が活動した期間は1941年(昭和16年)5月までの18年間でした。この間、同潤会は3種類の住宅事業をおこなっています。
時系列的に並べると以下のとおりです。
- 大正13年~大正14年の長屋形式の賃貸住宅
- 大正14年~昭和9年のアパートメント事業
- 昭和3年~昭和15年の戸建分譲住宅
同潤会の事業というと “表参道ヒルズ” として再開発された「青山アパートメント」や、 “代官山アドレス” として再開発された「代官山アパートメント」が有名ですが、東京に13ヶ所、横浜に2ヶ所のアパートメント事業をおこなっています。
出典:『同潤会に学べ 住まいの思想とそのデザイン』
このほかにアパートメント事業とは別ですが、住利共同住宅(昭和5年、深川区、294戸)と、戸山が原母子アパートメント(昭和12年、淀橋区、93戸)があります。
すべて鉄筋コンクリート造で階数は2~6階建てになっていましたが、現在はすべて解体されて再開発され、実物を見ることはできません。
同潤会が活動18年間で残したもの
同潤会の業績を一言で表現すると『鉄筋コンクリート造による集合住宅の普及』があげられます。
コンクリートによる建築はずいぶん古くからあったものですが、明治の末期にフランスで鉄筋コンクリート造のアパートメントを建築した、オーギュスト・ペレが近代建築の重要素材として広めたものです。
ペレの事務所には “ル・コルビュジェ” が在籍しており、コルビュジェをはじめ近代建築の三大巨匠にはそれぞれ得意とした素材があり、用いた素材が代名詞のように語られるのです。
- 鉄筋コンクリート=ル・コルビュジェ
- 鉄とガラス=ミース・ファン・デル・ローエ
- 石やタイルなど自然素材(有機建築)=フランク・ロイド・ライト
コルビュジェが独立するのは同潤会が設立される2年ほど前です。その頃には欧米において、鉄筋コンクリート造のアパートメント建築が多数建てられていました。
同潤会が設立された初期の「長屋形式の賃貸住宅」は木造建築でしたが、中期の「アパートメント事業」はもちろん鉄筋コンクリートです。
同潤会には理事である内田祥三の弟子といえる、東京帝国大学出身者そして、東京高等工業学校(現 東京工業大学)出身者が多く在籍しています。当時の最先端の技術や建築思想を学んだ人材が数多くいました。
鉄筋コンクリートという素材を使いこなす、知見と素養は同潤会にはあったといえるでしょう。
一方、同潤会事業の先駆的役割を果たした技術集団が東京にありました。それが東京市の市営住宅を建設した部局でした。
この部局のスタッフも同潤会同様、東京帝大と東京高等工業学校出身者により組織され、欧米の集合住宅などに関する研究をおこなっています。その知見は東京市内に多く建設した、鉄筋コンクリート造集合住宅に活かされています。
また市営住宅の部局が、1922年(大正11年)に刊行した『共同住宅及ビルディングに関する調査』は、同潤会の技術者に大きな影響を与えたものと考えられます。
このようにして同潤会は、東京市営住宅の実践的なデータを引き継ぎながら、公営住宅供給の役割を引き継ぎ18年間の活動をおこなったのでした。
同潤会がおこなった2つの木造住宅プロジェクト
同潤会の活動は既述のようにアパートメント建築が有名であり、建築史とは無縁のかたでも “同潤会アパートの保存運動” などで、名前を聞いたことがあるというかたもおられるようです。
しかし集合住宅ばかりでなく木造住宅においても、2つのプロジェクトがあることを忘れてはなりません。
初期は木造で長屋形式の賃貸住宅事業をおこなっていました。「普通住宅事業」と名付けられています。
この時期は『田園調布の開発と分譲がはじまる』で触れたように、エベネザー・ハワードの田園都市理論が影響を与えていたころです。同潤会においても賃貸住宅を建設するにあたっては、田園都市理論を実践しようとしていました。
田園都市の立地条件は郊外としていますが、鉄道網の拡大に伴い開発された利便性の高い地域は、すでに鉄道会社が開発をおこなうようになっています。そのため同潤会は利便性の高い郊外住宅地を確保することはできません。
事業予定地となったのは東京郊外でしかも利便性の低い地域となってしまいます。
しかし同潤会が活動初期に対象としていたのは、震災による住宅困窮者であって必ずしも「田園都市」に暮らしたいという願望を抱く人たちではなかったため、入居率は芳しくなかったことが明らかになっています。
こうして「普通住宅事業」は終息し、同潤会はアパートメント事業が主体事業になっていくのです。
ふたつめの木造住宅プロジェクトは、「普通住宅事業」で予定していた地域でおこなわれるようになります。
戸建住宅の分譲事業
1928年(昭和3年)になり戸建住宅の分譲事業に着手します。
敷地は借地ですが建物は7年から27年間の月賦払いとし、地代を含めて毎月の支払い額は、周辺の “家賃相場” 程度であったといいます。
同潤会が分譲事業に着手した理由にいくつかあったようですが、『同潤会に学べ 住まいの思想とそのデザイン』で、著者である神奈川大学建築学科内田青蔵教授は、次のような指摘をしています。
“住宅組合法による住宅への批判であり、より適切な新しい住まい造りの方法を提示しようとしていた”
引用:『同潤会に学べ 住まいの思想とそのデザイン』より
では「住宅組合法」とはいったいどのようなものだったのでしょう。
住宅組合法とは?
1919年(大正8年)に「公益住宅」制度が創設され、大蔵省から自治体などへ住宅建設資金が融資され、公営住宅が建てられるようになりました。(前述の東京市営住宅もこの資金を活用していました。)
住宅組合法はその2年後に公布・施行された法律です。
住宅組合法とは、住宅を所有しようとする人たちが数人(7人以上)集まり組合を結成し、組合単位で建設資金や土地購入資金を公的融資として借入し、20年弱ぐらいの期間で返済していく制度でした。
自治体職員、郵便局員、軍人、そして財閥系企業の社員など、安定した収入があり返済に窮することのない、限られた人たちだけが活用できる制度となっていました。
同潤会がおこなった分譲事業と比較すると、次のような欠点があったと認識されていたのです。
- 組合員である施主個人好みの住宅となり、売却の際には売りづらいものになってしまう
- 大半が大工任せであり、同潤会のような専門知識を有した技術者の関わりがない
- 敷地造成や上下水・ガスなどの設備工事が個別におこなわれ経済的でない
このような面で同潤会が分譲事業で意図したことは次のようなものでした。
- 多様な標準プランにより表情豊かな街並みを形成する
- 住戸の配置や外観には一定のルールがあり多様性の中にも統一感をもたせる
- 敷地を借地とすることにより購入できる所得階層を広げる
こうして総計500棟以上の分譲住宅を同潤会は供給していきました。
逆に住宅組合は融資が中止になることや、返済が滞る組合の出現など、政府が意図したような制度になることはありませんでした。
住宅組合法は結果的には利用件数が少なく、戦後、住宅金融公庫の設立により「給与住宅」として併用されることもありましたが、1971年(昭和46年)に廃止されています。
同潤会その後
同潤会は1941年(昭和16年)の住宅営団設立により解散し、全国各地では住宅営団による公営住宅事業が進められていきました。また同潤会の解散によりアパートメントは居住者に払い下げられ、区分所有建物に変更されています。
アパートメント事業のなかで具体化された集合住宅の住棟配置パターンや、多様な住戸計画は設計データとして建築に関わる人たちに共有され、高度成長期になり開発される民間分譲マンションの総合計画などに、活かされることもあったと想像できるのです。
また戸建分譲事業においても、ゆるやかなルールにより統一した街並みを形成する手法は、田園調布の田園都市でおこなわれた手法です。
画一的になりがちな分譲住宅団地の街並みか、または自己主張の強い注文住宅が建ち並ぶ街並み、この2つの選択肢しかない現代です。同潤会が理想とした個々の住宅の集まりが、ひとつの街並みを形成し全体として良好な環境を造りだそうとするムーブメントは、もう見られることはないのかもしれません。
参考サイト
- 一般財団法人 住宅生産振興財団「建築寫眞類聚 木造小住宅」
- J-Stage「住宅組合法による住宅供給の実際と教訓」
- 日本大学リポジトリ「成立から廃止までの史的経緯にみる住宅組合法に関する研究」
【参考書籍】 - 『同潤会に学べ 住まいの思想とそのデザイン』 発行所:王国社 著者:内田青蔵 発行者:山岸久夫