積水ハウス、セキスイハイム、大和ハウス工業、ミサワホーム、パナホームなどが工業化住宅の先頭集団を構成したころ、国をあげて工業化住宅の普及を広げようとする大きな制度ができました。
図らずもオイルショックと同時というスタートになったこの制度は、新築着工戸数が落ち込むなか一定の役割を果たし、住宅産業の形成に大きな役割を果たすのです。
工業化住宅に光が当たるなか、出遅れていた木造在来工法による住宅が、住宅産業のプレーヤーとして参入する、こんな動きもあった昭和50年前後に注目してみます。
工業化住宅性能認定制度がはじまる
住宅の建築工事をする前には、工事をおこなう住宅の法的適合性について、地方自治体の確認をとる必要があります。これを「建築確認制度」といいます。
工業化住宅の販売をおこなう各社は、地方自治体の建築確認申請の前に「38条認定」を受ける必要がありました。「38条認定」を取得するためには日本建築センターに申請が必要です。
その理由は、工業化住宅の構造方式はこのころの建築基準法で規定していないものだったので、特別の認定が必要だったからです。
1973年(昭和48年)「工業化住宅性能認定制度」が設けられ、いわゆるプレハブ住宅はこの性能認定を受けると、構造性能はじめ断熱性能や防火性能なども個別の審査を受けることなく、建築確認を済ませることが可能になったのです。
住宅金融公庫の融資条件である設計基準にクリアしていることも同時に証明され、工業化住宅が普及する環境整備にも大きな影響がありました。
このころの工業化住宅のシェアはおよそ9%であり、オイルショック後の不景気後には上昇し、平成4年におよそ20%とピークに達します。
また、工業化住宅性能認定制度の標準認定に該当する住宅には基準があり、年間供給戸数の下限と竣工後1年以上経過した戸数にも下限が設けられ、供給量の少ない企業は対象となりませんでした。このことによりこの当時、商品開発・技術開発をおこなっていた企業に対し、スクリーニングする結果となり、新規参入をむずかしくさせた一面もあったのです。
なお「工業化住宅性能認定制度」は平成12年の建築基準法改正により「型式認定制度」に移行します。
ハウスメーカーの登場
工業化住宅が生まれるまでの住宅業界は、大工の棟梁などを頂点とする職人社会が形成されており、 “施主と職人” という関係のなかで工事がおこなわれていました。
住宅の引渡しを受けた施主は「仕事っぷりの良さ」に感激し、知り合いにも紹介するという “クチコミ” による営業がおこなわれていたのです。
しかし工業化住宅は生産設備を遊ばせることなく運転を継続することにより、生産性が向上しコスト低下につながります。したがって一定数以上の年間着工数が必要となります。
クチコミ営業では受注量を確保することはできません。大量受注を可能にする方法が「総合住宅展示場」でした。
日本ではじめての「総合住宅展示場」は、1966年(昭和41年)にオープンした朝日放送グループの「ABCモダン住宅展」といわれます。5年後にはTBSグループの「TBSハウジング総合プレハブ住宅展」が武蔵境にオープンします。
消費者はこれまで「モデルハウス」を見て、請負業者を決定するといった体験がありません。カーディラーの展示場で好みの乗用車を見つけて購入するように、住宅展示場で住宅の設計や購入を申込むようになる時代が訪れたのです。
ここに “自動車メーカー” ならぬ “ハウスメーカー” という、新しい企業ジャンルが生まれたのでした。
プレハブ住宅以外もハウスメーカーに
工業化住宅(プレファブ・プレハブ住宅)は上に述べたように「ハウスメーカー」と呼ばれるようになります。
しかし住宅展示場には工業化住宅以外の住宅も建つようになります。
・昭和44年 東日本ハウス(現 日本ハウスHD) 設立
・昭和48年 フジ住宅設立
・昭和49年 三井ホーム設立
・昭和50年 住友林業本格注文住宅へ事業拡大
・昭和53年 一条工務店設立
三井ホームはツーバイフォー工法ですが、ほか4社は木造在来軸組工法です。工業化住宅とは異なる伝統工法による住宅造りをする企業が、工業化住宅が建ち並ぶ総合住宅展示場にモデルハウスを建てて営業をするようになりました。
クチコミや人のつながりで事業を継続してきた、工務店や棟梁の世界に “住宅営業マン” という、これまで存在しなかった職能が出現したのです。
特に東日本ハウスは、これまで住宅とはまったく無縁のビジネスマンだった創業者が、広告代理店として起業する目的で顧客打合せのため上京する列車の中、スタッフの一人が発した言葉にヒントを得て「住宅事業」を思いついたといいます。
住宅の建て方も設計のしかたも、土地の購入方法も知らずに飛び込んだ住宅の世界で、成功するための方法が「モデルハウス営業」だったわけです。
プレハブ住宅を展示するのが常識と考えられていた展示場に、在来工法によるモデハウスが建つという歴史的出来事が、在来木造工法による住宅供給企業も「ハウスメーカー」と呼ぶようになるキッカケになったのでした。
そしてハウスメーカーと呼ばれる企業群により “住宅産業” が形成され、工業化住宅が住宅産業を牽引する時代がバブル経済崩壊までつづくのでした。
ポスト工業化住宅の萌芽
大和ハウス工業の「ミゼットハウス」から10年以上が経過し、工業化住宅のシェアは10%程度の状態となっていました。これを妥当と捉えるか、過少と捉えるか識者により判断は異なります。
過少と評価するなかには、工業化住宅の販売経費が在来の木造住宅に比較して高く、そのため販売価格が高くなります。その高価格がシェアを低くする原因ではないか、と指摘する意見があります。
一方、鎌田は建築生産論から 1970 年代半ばの時点において、工業化住宅が「10数年という年月をかけて、何故に10%という低いシェアしか獲得できなかったか」という問題意識のもとに、「木造在来軸組工法」と「工業化住宅」の原価構成を比較研究し、工業化住宅は「それ自体、相当のコストメリットを獲得」しているが、「在来工法における販売間接費の少なさに比べ、プレハブ工法の販売間接費の大きさがコストメリットを相殺している」と述べている。
引用:京都大学学術情報リポジトリ「経営的側面からみた工業化住宅の生産・供給の変遷に関する研究」
上記引用文の “鎌田” とは『プレハブ住宅の台頭』で触れた、東大内田祥哉研究室出身の鎌田紀彦氏であり、氏はのちに木造在来工法の改革事業に乗り出します。
工業化住宅を政策的に普及させようとするなかで、木造在来工法に光をあてようとする動きも芽生えてきたのです。
参考サイト
・産業技術史資料情報センター「日本の工業化住宅 ( プレハブ住宅 ) の産業と技術の変遷」
・京都大学学術情報リポジトリ「経営的側面からみた工業化住宅の生産・供給の変遷に関する研究」
・国土交通省「プレハブ住宅の動向」
・Wikipedia「ABCハウジング」
・Wikipedia「TBSハウジング」