1894年(明治27年)日本ではじめての貸しビルが完成、建てたのは「三菱合資会社」です。
このときまでに三菱財閥は会社名を次のように変えています。時期によって社名表示が変わるので記録しておきます。
九十九商会→三川商会→三菱商会→三菱社→三菱合資会社→三菱各社に分割
ここでテーマとする三菱地所株式会社は、1937年(昭和12年)5月7日、三菱合資会社より分社独立し設立されます。
「三菱村」といわれる丸の内オフィスビル街の地主であり大家である、三菱地所誕生物語に触れていきましょう。
岩崎弥太郎と丸の内の縁
三菱財閥の創業者岩崎弥太郎は誰もが知る人物です。
2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では、福山雅治演じる坂本龍馬の幼馴染という設定で、岩崎弥太郎を香川照之が演じていました。
“幼馴染” という設定はドラマの演出上であり、実際の接点はわずかであったといいます。
岩崎弥太郎は坂本龍馬が “海援隊” で活躍していたころ、土佐藩が運営していた “開誠館” の長崎出張所主任をしており、このとき龍馬との若干の接触があったといわれています。
もともとビジネス感覚が優れていたと考えられる “弥太郎” は維新後、九十九商会の前身となる開誠館大阪出張所の責任者を務めており、ときおり出張で東京の土佐藩上屋敷に赴くことがあったそうです。
東京の上屋敷は丸の内の鍛冶橋近く、現在の東京国際フォーラム(千代田区丸の内3丁目5−1)あたりだったそうです。
開誠館はのちに “大阪商会” と名を改め、廃藩置県直前には「九十九商会」と改称していました。
廃藩置県により “弥太郎” は土佐藩の職を失うのですが、高知県庁からの要請により九十九商会の経営を任されるのでした。
事業の中心は東京―大阪、神戸―高知の海運事業だったのです。
九十九商会は“弥太郎” の経営になると名を “三川商会” と改めます。そして1873年(明治6年)に至り “三菱商会” と改称し、歴史上はじめて “三菱” という名称が登場します。
なお三菱の由来は九十九商会当時から使用していたマークにあるそうです。マークは現在のものより細身の “スリーダイヤ” でした。
(土佐藩山内家の紋所「三ツ柏」と、岩崎家の紋所「三階菱」を合体したマークとのこと……)
三菱が丸の内を取得した日
丸の内一帯は大名屋敷が多くあったところです。廃藩置県・版籍奉還により大名はじめ武士は国元に戻り、丸の内は政府の管轄地になります。大名屋敷はそのまま残っており、陸軍の兵営街として使用されるようになりました。
明治20年頃には兵営地が麻布に移転し、1888年(明治21年)には東京市区改正条例が公布され、丸の内も市街地へと変わっていくことになります。このころ陸軍は徴兵令の改正により “国民皆兵制” が確立し、麻布の兵営建設に莫大な予算を必要としていました。
そこで資金捻出のため考えられたのが丸の内の売却でした。
売却は民間への払い下げとなり入札がおこなわれましたが、結果は不調に終わり一本釣りのようなかたちで、三菱への払い下げが決定されます。
買い受けたのは、弥太郎の長男岩崎久弥の代理人であった弥太郎の弟弥之助であり、金額は128万円(坪単価11円96銭)で、明治23年のことです。
弥之助から三菱合資会社に所有権移転されるのは、1894年(明治27年)1月29日のことです。
三菱1号館から13号館の建設
三菱合資会社は丸の内を取得した明治27年に、日本初の貸しビルである「三菱1号館」を建設します。
竣工は6月27日と記録されています。着工は明治25年1月ですので2年半という工期でした。
丸の内は「東京低地」といわれる地盤が軟弱な地帯であり、レンガ造りの建物を建てるには “杭打ち工事” が絶対必要でした。また地震の多い日本では耐震性能も重要であり、「帯鉄」や1~2階で一致する「耐震壁」の配置など耐震設計もおこなわれていました。
このとき『同潤会アパートが近代日本建築に与えた影響』で触れた内田祥三が、技師として三菱に在籍しており、竣工直前に発生したマグニチュード7.0の大地震のときの体験を語っています。
1号館につづき明治44年までに13号館を、レンガ造の建築を建設していますが、その竣工時期は以下のとおりです。
・ 3号館:1896年(明治29年)日本郵船会社が入居
・4号館:1904年(明治37年)古河鉱業が入居
・5号館:1905年(明治38年)セール フレーザー商会が入居
・6号館・7号館:1904年(明治37年)賃貸住宅兼用事務所
・8~11号館:1907年(明治40年)賃貸住宅兼用事務所
・12号館:1910年(明治43年)東洋汽船など6社が入居
・13号館:1911年(明治44年)南満州鉄道など3社が入居
なお1号館には三菱合資会社ほかが入居していました。
こののち丸の内では貸しビルの建設がつづき、三菱合資会社の資産の増加に伴い、賃貸事業の管理をおこなう三菱地所の前身「地所部」の重要性も大きくなっていきます。
「地所部」の業績と分社化
海運業からはじまった九十九商会は、三菱合資会社と名前が変わるまでにさまざまな事業に進出します。まず着手するのが開発事業でした。
・岡山県では児島湾を干拓し綿花栽培と米作事業
・丸の内の払い下げと同時に取得した三崎町では、賃貸住宅と商店街形成のための下水道工事と賃貸住宅建設、および貸地事業
・越前堀や愛宕町など各所での土地賃貸事業
・千葉県の末広農場・岩手県の小岩井農場(岩崎家の所有地)
これらの事業は「地所部」の管轄となっており、つづいて日本各地の鉱山・炭鉱の経営、そして長崎造船所の経営と事業は拡大していったのです。
1893年(明治26年)の商法改正により、三菱合資会社と改組しましたが、各事業部の業績は伸びていき1911年(明治44年)には各事業部の資本金は次のとおりでした。
・鉱山部:1,200万円
・営業部:300万円
・銀行部:100万円
・地所分:300万円
資本金を各部に設定し独立採算制を採るという、近代的な経営がおこなわれていたのです。
そののち各事業部は分社独立し、大正6年から大正10年までに、次のような株式会社が誕生しました。
・三菱製鉄(のちに日本製鉄)
・三菱倉庫
・三菱鉱業
・三菱商事
・三菱海上火災保険
・三菱銀行
・三菱内燃機製造(のちに三菱重工業)
・三菱電機
しかし重要な事業を管轄する「地所部」は独立することなく、本社に残るのでした。
三菱地所株式会社誕生と10年後に迎えた存亡の危機
三菱地所(株)が誕生するのは1937年(昭和12年)5月7日のことです。これに先立つ5月3日には三菱合資会社との間で「営業譲渡契約書」が締結され、三菱本社が所有する一部の不動産と、丸の内に存在する賃貸ビルなどの営業権を取得することが決まっていました。
三菱地所が取得した不動産は、1923年(大正12年)竣工の丸の内ビルディング(丸ビル)とその敷地、愛宕町にあった42坪ほどの建物と敷地のみでありました。
三菱本社が所有する大部分の不動産については、その営業権のみを譲渡し管理業務を委託する形態とし、所有権そのものは三菱合資会社から離れることはありませんでした。
このことが10年後になり、三菱地所存亡の危機を迎える原因となったのです。
財閥解体
太平洋戦争の終戦により日本の統治は「GHQ(連合国総司令部)」がおこなうことになりました。GHQは丸の内を占領し本拠地を第一生命館(千代田区有楽町1-13-1)とします。
1945年(昭和20年)10月22日、GHQは “主要金融機関又は企業の解体又は生産に関する総司令部覚書” により、三菱・三井・住友・安田の4大財閥を含めた15財閥に対し、資産処分の防止と解体・清算の制限をおこなうため、各財閥の事業内容と資本構成を報告するよう指示しました。
これにつづいて11月には “持株会社の解体に関する件” という覚書を発し、財閥の解体を指示します。
三菱財閥の解体に関して大きな課題となったのが、三菱合資会社が所有する膨大な不動産の処分方法でした。
三菱本社は賃借人のなかで希望する会社に売却し、売却できなかった不動産は新規に設立される会社に一括譲渡する方針をだします。しかし三菱地所にとっては容認できる処分方法ではありません。
丸の内に建設したビル群の管理と、1,000以上の賃貸借契約にもとづいた賃貸管理をおこなってきた、地所部を前身とした三菱地所です。三菱本社が所有する不動産を第三者へ譲渡することは、三菱地所の経営基盤を失うことになります。
三菱地所は本社の案に真っ向から反対し、不動産の一括譲渡を申入れし本社と対立します。こうして三菱合資会社と三菱地所との対立は、やがてGHQにまで持ち込まれることになりました。
やがて1949年(昭和24年)10月に至り、持株会社整理委員会の仲裁により以下の処分方法が決定します。
2. 両第二会社に三菱合資会社の資産を現物出資する
3. 後に三菱地所と両第二会社が合併する
こうして財閥解体をめぐる危機的状況は解消できたかに見えますが、3年後の1952年(昭和27年)に陽和不動産の株買占め事件が起きるのです。つまり陽和不動産の乗っ取りです。
一時は20%以上の株が総会屋に買い占められたのですが、三菱銀行を中心としたグループ企業の努力もあり、乗っ取りを防ぐことに成功し1958年(昭和28年)4月に3社は合併します。
ここに至り三菱地所は名義上も実質上も「丸の内の主」となったのです。
参考サイト
・NHK「大河ドラマ 龍馬伝」
・東京散歩『江戸史跡散歩』「江戸の大名屋敷跡を歩く」
・一般社団法人 東京都地質調査業協会「東京の低地」
・J-Stage「耐震研究略史」
【参考書籍】
・『丸の内百年のあゆみ』発行:三菱地所株式会社 編集:三菱地所株式会社社史編纂室 印刷:凸版印刷株式会社