多摩ニュータウンなど大規模ニュータウン開発

全国には小規模団地から大規模なニュータウンまで、2千を超える「ニュータウン」と名のつく街があり、なかでも300haを超える大規模なニュータウンは70ヶ所におよびます。

そのなかで「多摩田園都市」に次ぐ大規模なニュータウンが、東京都多摩地区で開発された「多摩ニュータウン」です。

「多摩田園都市」は東京急行電鉄が主導し、土地区画整理事業で開発されましたが、多摩ニュータウンは日本住宅公団と東京都がおこなった官主導の大規模プロジェクトでした。

ここでは、官主導だから可能になった開発手法と、注目された街づくりの一端を見ていきます。

新住宅市街地開発法とは

多摩ニュータウンを語るにあたって「新住宅市街地開発法」に触れなければなりません。

新住宅市街地開発法は昭和38年に制定された法律です。最低でも約6千人から1万人程度が居住する住宅市街地(ニュータウン)の形成に適用される法律で、最初に適用されたニュータウンが大阪府の「千里ニュウータウン」です。

昭和36年以降に着手した代表的ニュータウンの概要を示しておきます。

ニュータウン,開発出典:『ニュータウンの社会史』

千里ニュータウンは新住宅市街地開発法制定前に先行していましたが、泉北ニュータウンと多摩ニュータウンは事業決定時から、同法の適用を受けて進められました。

新住宅市街地開発法の大きな特徴は “土地所有者の意思にかかわらず、計画区域の土地を全面的に買収できる強い権限” でした。

この強い権限が農業を営む人たちの反対により、買収は難航することになります。最終的には一部を土地区画整理事業とすることにより、官営最大のニュータウンが開発されたのでした。

多摩丘陵が開発された理由

多摩ニュータウンは1966年(昭和41年)事業着手し、2003年(平成15年)に東京都が、2006年(平成18年)に都市整備機構(旧 住宅公団)が、それぞれ事業を終了し未開発地は民間へ払い下げられました。実に40年間にもおよぶ事業期間を要した大規模団地開発でした。

八王子市・町田市・多摩市・稲城市の4市にまたがり東西14km、多摩センター駅を中心に西は堀之内・南大沢・多摩境、東は永山・若葉台・稲城と、京王相模原線に沿った丘陵地帯に人口22万人(平成27年現在)が居住します。

ニュータウン,開発引用:東京都都市整備局「多摩ニュータウンの概要について」

多摩ニュータウンの開発計画の前には、北多摩地区の開発が先行していました。

1956年(昭和31年)に制定された「首都圏整備法」は、東京都心部である既成市街地への人口集中を抑制するため、既成市街地の外側にグリーンベルト(近郊地帯)を設け、その外側に衛星都市を設け人口の分散を図るものでした。

しかし北多摩地区でグリーンベルトと指定された自治体では、都市化規制に対する反対運動を展開するとともに、工場誘致や宅地開発を積極化し都市化の既成事実を積み重ねていったのです。

また八王子や青梅そして相模原などは “衛星都市” と位置付けられる「市街地開発区域」に指定され、活発な工場誘致や宅地開発がおこなわれるようになり、同時にスプロール現象もみられるようになります。

そこで一定の規制のもとで、大規模な市街地開発を可能にする法整備の必要から「新住宅市街地開発法」が制定され、多摩地域のなかでは山林が多く開発の進んでいなかった、多摩丘陵が開発候補地となったのです。

新住宅市街地開発法の問題点

新住宅市街地開発法には大きな問題が実はありました。

法の目的は『健全な住宅市街地の開発及び住宅に困窮する国民のための居住環境の良好な相当規模の住宅地の供給を図る』ことであり、商業・工業施設の立地については厳しい規制がありました。

ニュータウンの自治体にとって人口が増えることは歓迎するのですが、同時に商工業施設の誘致により、雇用と法人住民税や固定資産税の増加も望むわけです。

そこで多摩市は昭和48年ころから、東京都や建設省に対し意見書を提出し、法改正を積極的にはたらきかけました。その結果、昭和56年に至り「サービスインダストリ―地区」の設定がおこなわれ、翌年に業務用地の分譲が開始されたのです。

平成2年にはセンター地区に京王プラザホテル多摩が開業し、翌年には朝日生命保険多摩本社の誘致にも成功し、遅ればせながら居住施設以外の施設をニュータウン内に確保することができました。

以下は多摩ニュウータウンの開発過程の抜粋です。

ニュータウン,開発出典:丘のまち~東京・多摩ニュータウンに暮らす~ 「多摩ニュータウン開発年表」

40年が経過し多摩ニュータウンは “再生” という大きな課題に直面しています。開発当初はベッドタウン的位置づけとしてスタートしたわけですが、それは建築家 隈研吾氏いわく「郊外の夢」でしかなかったのでしょうか。

再生事業により都心との関係性を断ち切り、自立した多摩地区を形成できるか今後試されるわけです。「郊外の夢」を象徴する現象は、次のようなシーンでも見ることがありました。

テラスハウスの登場

1983年(昭和58年)、社会現象にまでなったテレビドラマが放映されます。

TBSが制作した『金曜日の妻たちへ』、主な出演者は以下のようなキャスティングでした。
古谷一行、小川知子、いしだあゆみ、泉谷しげる、竜雷太、佐藤友美、加藤健一、石田えり・・・

舞台は “中庭をもつ家” が建つ、つくし野~たまプラーザ一帯の住宅地を設定したドラマですが、実際のロケは多摩市落合地区の “タウンハウス落合” でおこなわれたのです。

タウンハウスとは住宅を連棟式にした形式で、建築基準法では「長屋」に該当する「テラスハウス」をいいます。隣り合う住戸が中庭を囲むようにして、連続させる手法を用いることもあり、 “金妻” の舞台となったのは庭のあるタイプでした。

ニュータウン,開発引用:GoogleMap

分譲住宅の建物部分は区分所有され、敷地については区分所有している建物の真下部分を分筆登記する方式か、持分に応じた共有登記をしています。

分譲集合住宅の一形態として現在もときどき用いられる方式ですが、多摩ニュータウンで採用されたことは、画一的になりやすい官主導のプロジェクトにあって、意欲的な試みがなされたものといえます。

ドラマのなかで背景として映しだされる “中庭をもつ家”に、郊外の夢を投影した人が多かったのかもしれません。

多摩ニュータウンの再生事業

多摩ニュータウンについて最後に、再生事業にすこし触れてみます。

諏訪・永山地区の第一次入居開始からすでに50年近くが経過し、老朽化が進む建物もあります。

現在は東京都が「多摩ニュータウン地域再生ガイドライン」を策定し2040年代の姿を目標として、再生事業の遂行を計画しています。

ニュータウン,開発引用:多摩ニュータウン地域再生ガイドライン

エリア別の地域像では、もっとも古い地区である諏訪・永山そして落合・豊ヶ丘など、事業前期に開発された地域を「再生促進重点エリア」と位置づけ、大きなリニューアルがおこなわれると予想されます。

事業前期は賃貸向け集合住宅が多く建設された地域であり、都市整備機構の住宅や東京都営住宅がほとんどです。

団地建替えにさいしては、人口構成の変化により不要となった学校跡地を活用し、仮移転の不要な建替事業が計画されているようです。またニュータウン開発当初には不可能だった、職住近接を可能にする商業・産業施設の誘致にも期待がもてそうです。

2027年に開業を目差すリニア中央新幹線の神奈川県駅(仮称)まで、至近距離となる「多摩境駅」周辺は業務・商業活性化エリアとして位置づけられ、大きな変貌が見られるのかもしれません。

ニュータウンの再生については他のニュータウンも同様で、以下のように再生計画が策定されていたり、継続事業としておこなわれている状況が確認できます。

千里ニュータウン
高蔵寺ニュータウン
泉北ニュータウン
千葉ニュータウン
港北ニュータウン

しかしながら問題がないわけでもありません。

公営賃貸マンションの再生事業は進んでも、分譲マンションやタウンハウスの再生が進むかどうかは、全国的にみられる “マンション建替え問題” と共通することです。

参考サイト

一般財団法人 不動産適正取引推進機構「昭和高度成長期の不動産政策(上)」
一般財団法人 不動産適正取引推進機構「昭和高度成長期の不動産政策(下)」
東京都都市整備局「多摩ニュータウンの再生」
東京都都市整備局「多摩ニュータウン地域再生ガイドライン」
・東京都市長会「多摩地域における誇るべき文化とは」
UR都市機構「多摩ニュータウンの概要」
丘のまち~東京・多摩ニュータウンに暮らす~ 「多摩ニュータウン開発年表」
TBSチャンネル「金曜日の妻たちへ」
国土交通省「宅地供給・ニュータウン」
【参考書籍】
・『ニュータウンの社会史』 発行所:株式会社青弓社 著者:金子淳 発行者:矢野恵二 印刷:三松堂

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